(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1073回

〝ちょうどいい〟という幸せ

子供が問題を起こした時、当人だけでなく家族全体の関係を注視することが、問題解決の糸口になる。

神様からの宿題
 〝ちょうどいい〟という幸せ

以前テレビで、ある有名なアナウンサーがインタビューを受けているのを見た。その人がまだ駆け出しのころ、プロ野球の実況中継をやりたくて研修を受けていたときの話になり、こんな失敗談を披露していた。

試合の実況の練習中に、バッターが〝カーン〟といい音を立ててボールを高々と打ち上げた。思わず「打ちました! 大きい当たり」と叫んだのだが、ボールが落ちてきたのはピッチャーのグローブの中だった。
「すみません」と謝る彼に、横についていた先輩アナウンサーはこう言ったという。
「ボールが高く上がったら、ボールばかり見ていてはだめだよ。下を見るんだ。選手の動きを見ていたら、ボールの落ちるところが分かる。ボールはグローブを構えた人のところに落ちてくるんだから」。

家族問題の相談の現場でも、これによく似たことがある。誰かが問題を起こしたとき、悪いのは本人だけで、当人さえ変わればまるく治まると考える。
一見、正しいように思うが、これはちょうど、打ち上がったボールだけを見ているようなもの。大切なのは「下の動きを見る」こと、つまり「問題が起こったら、周囲の人たちの動きを見ろ」ということだ。  
誰かが家族の外に〝打ち上がって〟しまったら、その人が再び家族の中に収まるための場所をつくらねばならない。下りる場所がなければ、ボールはずっと打ち上がったままである。

しかし、この〝場所づくり〟が結構むずかしい。なぜなら、問題を起こした人以外の家族はみな〝いい人〟である場合が多いからだ。
「私たちのどこが悪いと言うんです!」
「なぜ私たちが変わらなきゃいけないんですか。本人さえ、ちゃんとしてくれればいいんです」。
いい人で固まっている家族に、問題児の帰る場所はできにくい。
「せめてあの子が前向きな姿を見せてくれたら、私たちだって考えますよ」。
相手が変われば私も変わる―そんなやりとりをいくらしても、らちはあかない。

それどころか〝せめてもう少し〟と相手に求める欲の心は、お互いの心を深く傷つける。相手に対する不足の心は新たな不足を生み、それがまた相手を責める心に変わっていくのだ。実際に問題が起こった家族では、お互いに根深い被害者意識を持ち合っていることが多い。  
しかし、高い球は勝手に上がったのではない。その家族が、誰か悪者をつくらないと安定できないという、片寄ったバランスにあるときに問題児が打ち上げられる、ということも忘れてはならない。さもなければ、その人が、家族の中での居場所を完全になくしてしまうことにもなりかねない。

家族とは、神様がそれぞれの組み合わせをじっくりとお考えになってつくられたものである。
「この子さえ問題を起こさなかったら」「この人さえいなかったら」という世界はあり得ない。その家に不必要で無意味な人間など、決していない。すべてが〝ちょうどよく〟できているのだ。  
親子、夫婦、兄弟姉妹、嫁姑……よく見ると、本当にバランスの取れた組み合わせになっている。
無口な人にはおしゃべりの人が、竹を割ったような性格の人には、割れた竹を一生懸命に閉じ合わせようとする性格の人が、〝ちょうどよく〟そばについているものだ。

問題児に対して、「この子がいてくれて、いまのわが家はちょうどいい」と認めることから始めるのは、むずかしいことかもしれない。しかし家族の問題は、〝もっと豊かで柔らかく、力強い家族に成長するように〟と、神様から出された〝宿題〟なのだ。
「本当に神様のなさることは」と、多少苦笑いをしながらでも、家族みんなで協力し合って、その宿題の答えを探していくことだ。小さなことからでも毎日、喜びと感謝の心を積み重ねていきながら……。

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