(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1090回

「フツー」ってなに?

自分の基準で都合良く使われる「フツー」という言葉。時に夫婦げんかの火種になることも…。

神様からの宿題

 『フツー』ってなに?
    (「人間いきいき通信」2001年7月号より)

「普通にもいろいろな普通があるものだ」と思う。
犬も食わないと昔からいわれる夫婦げんかの仲裁に入ったときのこと。結婚三年目のその夫婦は、交際の始めから新婚時代まで、仲の良いことで有名だったそうだ。ところが……。

「先生、聞いてくださいよ。この人フツーじゃないんです」
「いーや、おまえのほうがおかしい。絶対フツーじゃない」

このやりとりから始まって、お互いの言い分は、いくら話しても噛み合わない。たまりかねて「じゃあ、相手のどんなところが普通じゃないんですか?」と尋ねてみたら、

「この人、どんな料理にもマヨネーズをつけるし、お醤油とかソースだって、フツーじゃないくらい、いっぱいかけるんですよ!」
「おまえだって、歯磨き粉のチューブを下からきれいに押して出さないじゃないか! 次に使う者が迷惑だろ! 常識がないんだから」

と、聞いているこちらまで「そんなことでフツー、ここまでケンカしないでしょ!」と「フツー」がうつってしまった。

どうも「フツー」という言葉は、自分に都合よく使われることが多いようだ。考えてみれば、夫婦といってもまったく違う環境に育った者同士、生活習慣や物事の考え方が違って当たり前である。
「たとえ親子、夫婦、兄弟であっても、一人ひとり心は違う」という基本を忘れてはいけないのだ。

自分と違うところに惹かれ合ったはずの二人が、お互いの違いばかりに目を向けて喜べなくなったり、相手を自分に合わせようとやっきになったりするとき、さまざまなもめ事が起こってくる。

「フツー」という言葉を使うときには、その前提として他者との比較が行われているはずだ。「誰々に比べて」「どこどこの家に比べて」というふうにである。

しかし、他人との比較のなかで自分の価値を決めようとすると、目先の小さな競争や評価が気になり、かえって心のゆとりをなくし、自分自身の心をふらつかせ迷わせやすい。「フツー」を目指すことは、何かを増やしていくことよりも、自分自身の大切な何かをなくしていくことのほうが多いのだ。

かつて面接した不登校児のAくんは、人一倍優しく、相手の気持ちになって物事を深く考え、素直な言葉で自分を表現できる、人間的にとても魅力のある子だった。

しかし、彼のお母さんの望みは、「先生、私は多くは望んでないんです。あの子が普通の子らと同じように、普通に学校に行って、普通に勉強して、普通に進学して、普通の大人になってくれればいいんです」というものだった。

私はお母さんに問い直した。
「お母さん、親としての気持ちは十分に分かりますけど、それはいまのAくんの長所や特徴を全部削ぎ取って、何もない子になってほしいということですよ。それがAくんの幸せにつながるのですか?」

たとえ不登校の子が学校へ行くようになったとしても、その子が人間的に貧しくなってしまっては、なんにもならないと思う。
よく人は「フツーの子」と言うが、文字通りの「フツーの子」に出会ったことは、私はいままでに一度もない。みんな一人ひとりが特別な子なのである。

「フツー」という言葉に心を奪われて、他人と比べることで自分自身の心の特性を引いたり削ったりするのではなく、自分と他人との心の違いを楽しみ、足りないところを補い合い、足し合い、掛け合ったりしながら、人として豊かに生きる道を探っていきたいものである。

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