徳積みはコッソリと
岡山県在住 山﨑 石根
現在、天理市で寮生活をしている高校一年生の二男は、どういう訳か幼い頃から、色々なものがよく当たる子でした。兄と一緒にガチャガチャをしても、弟の彼だけ欲しいおもちゃが当たったり、たまにしか買わないアニメのメダルやカードでさえ、見事にレアな物を引き当てたりするので、長男が「何で弟だけ…」となって悔しがる場面を何度も見てきました。
その度に、二男は周りの人から「徳があるなぁ」と言われてきたのですが、実際に昔から黙々とお手伝いなどが出来る子であったのは確かでした。「何で弟だけ…」と悔しがる長男に対して、「あんたもしっかり徳を積んだら当たるようになるわ」と、しばしば妻が言っていたのを覚えています。
昨年の三月、岡山市の大教会で子どもたちを対象にした大きな行事が開かれました。実に、子どもが100人以上集まるビッグイベントです。この行事への参加が最後になる年齢の二男は、ラストのビンゴ大会で、何と目玉景品の一つであり、本人も欲しがっていたスマホのワイヤレスイヤホンをゲットしたのです。
飛び上がって喜ぶ二男に、妻が「これで、積んだ徳を全部使い果たしたなぁ」とひと言。それに対して、「そうじゃな。また徳を積まなあかんなぁ」と二男が答えたのを聞いて、私は何だか嬉しくなったのでした。
「徳を積む」とは、昔から日本で大切にされてきた考え方ですが、天理教教祖・中山みき様は、人の見ていない〝陰で徳を積む〟ことの大切さをお説き下さいました。
たとえば、教祖は飯降伊蔵さんという方に、「伊蔵はん、この道はなあ、陰徳を積みなされや」と教えられました。そこで、大工だった伊蔵さんは、夜な夜な、人知れず壊れた橋を繕ったり、悪い道を直したりして、教えを実践されました。陰で良い行いをしても、当然評価されませんし、見返りもありません。しかし、それこそが神様にお受け取り頂ける行いなのだと、教祖はお教え下さったのです。
さて、私は毎月、神様の教えをチラシにして近所に配ったり、教会の壁に掲示したりしているのですが、チラシにこの「陰徳を積む」というお話を書いた、昨年10月のある日のことでした。
その日は、年齢や国籍を問わず、地域の人たちが集まって食事を楽しむ「みんなの食堂」という行事の日で、私がスタッフとして会場の準備をしている時、同じスタッフをしている主任児童委員の有元(ありもと)さんが、次のような話を聞かせて下さいました。
「山﨑さん、私は毎日、犬の散歩をしてるんですが、他の犬のフンが落ちているのを見たら、これまでは見て見ぬふりをしていたんです。次の日にそのフンが潰れているのを見たりしたら、ああ、昨日拾えば良かったと後悔するんですが、自分の犬以外のフンは、やっぱり汚いなぁと思っていたんです。
でも、今回のチラシの〝陰徳を積む〟という話を読んで、そうか、見返りを求めずに頑張ったら、徳を積むことになるんだと知って、最近はいっつも拾うようにしているんです。だけど、本当はこのことも言っちゃダメなんでしょう?」
思いがけない有元さんの良い行いの報告に、自然と私以外のスタッフからも拍手が起き、みんな「スゴ~イ」「ステキ~」と笑顔になりました。私は 「そうそう、良い行いも自分から言ってしまうと、積んだ徳が勘定済みになってしまうって言われていますけど、でも、こうしてみんなを嬉しい気持ちにさせたんだから、素晴らしいじゃないですか」とお伝えしました。
教祖の教えが少しでも地域の方に伝わり、少しでも陽気ぐらしの世の中につながればとの思いから、チラシを外に掲示していましたので、私の嬉しさも一入でした。
その上で、有元さんから主任児童委員らしい提案もありました。
「私は今、小学校の学校運営協議会の委員をしてるんですが、学校の取り組みの一つに〝友達のいいところ見つけ〟のようなものがあるんです。友達のいい所を発見して褒め合ったり、報告したりするんですが、ふと、いい行いをしても、見つけてもらえなかった子がいたら可哀想だなぁと。なので、その子たちに何とかこの〝陰徳を積む〟という話を聞かせるような教育が出来ないか、先生方に提案しようと思ったんですが、勇気がなくて言えませんでした」
有元さんは少し恥ずかしそうに話してくれましたが、これまた周りから拍手が起こりました。みんなで「そうだよなあ」と考えさせられるお話でした。
教育現場において、「知育」「体育」と並んで、大切な分野として「徳育」というものがあります。徳育とは、人間としての心情や道徳的な意識を養うための教育のことです。
有元さんは、天理教の教えを公の場で伝えることに少し勇気がいったのかも知れませんが、子どもの育ちを応援したいその思いに深く感激した私は、「え~、徳育だから全然言って大丈夫だったんじゃないですか~」と残念がりました。
それは、私自身がこの「人の見ていない陰で徳を積む」という教えが、とても好きだということもありますし、「たとえ誰かに評価をしてもらえなくても、お天道様、つまり神様は必ず見て下さっている」というのは、私たち夫婦が教会のこども会などの行事で、ずっとずっと伝えてきたことだからでした。
さて、このような嬉しい出来事があったので、「徳を積み直す」と言っていた二男のその後が気になり、連絡をして尋ねてみました。
「それが、隠れていいことをしようとしても、人に見つかってしまうんよ~」と、さすがの一言。念のため、長男にも尋ねてみると、「僕の徳積みは参拝や」とのこと。
陰であってもなくても、きっとどちらも神様は喜ばれるだろうなぁと、親としては大満足の回答でした。そして、子どもたちのこの姿が、私にとっての目玉景品だと思いました。
教祖、ありがとうございます。どうか、いつまでもこの素直さを持ち続けてくれますように…。
子供があるので楽しみや
天理教教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。
教祖は、かねてから飯降伊蔵さんに、早くお屋敷へ移り住むよう仰せられていました。しかし、伊蔵さんとおさとさん夫婦には子供が三人いて、将来のことが色々と案じられ、なかなか踏み切れずにいました。
ところが、そうこうしているうちに次女が眼を患い、一人息子は口がきけなくなるというお障りを頂きました。そこで、母親のおさとさんが教祖にお目にかかり、「一日も早く帰らせて頂きたいのでございますが、何分櫟本の人達が親切にして下さいますので、それを振り切るわけにもいかず、お言葉を心にかけながらも、一日送りに日を過しているような始末でございます」と申し上げました。
すると教祖は、「人が好くから神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。人の好く間は神も楽しみや」と仰せられます。
おさとさんが重ねて、「何分子供も小そうございますから、大きくなるまでお待ち下さいませ」と申し上げると、教祖は、「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早よう帰って来いや」と仰せ下されたので、おさとさんは「きっと帰らせて頂きます」とお誓い申し上げました。そして帰宅すると、二人の子供は、鮮やかにご守護頂いていたのです。
かくて、おさとさんは、夫の伊蔵さんに先立ち、おたすけ頂いた二人の子供を連れて、お屋敷に住まわせて頂くこととなりました。
「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない」との教祖のお言葉は、この世の元初りにあたり、どろ海中の混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた、まさに親神様のお心そのままです。
おふでさきに、
月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから (十四 25)
とあるように、私たちが陽気ぐらしをする姿を見ることを、究極の楽しみとされる親神様。そのために親神様は私たち人間に様々な事情を見せられ、この道にお引き寄せ下さるのです。
(終)