天理教の時間

「天理教の時間」家族円満 気づいていますか?身近にある幸せ

週に一度、心のつかい方を見直してみませんか?毎週金曜日、教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。

ポッドキャストでも配信中

無料でお聴きいただけます。

登録はこちらから

最新のおはなしを聞く

第1292回

幸せを求める心

幸せな暮らしを求め、日々よい種をまいていく。ある一流アスリートの日常から、そして神様のお言葉から学ぶ。

幸せを求める心

大阪府在住  山本 達則

 

あるテレビ番組で、一人のアスリートについて特集していました。現在も世界の表舞台で活躍されている方ですが、そのアスリートの日常を良く知る方がインタビューに答えていました。

「彼が一番優れているところは、どこでしょうか?」という質問に対して、その方は「自分自身が今、必要としている事以外に惑わされない強い心だと思います」と答え、食事を例にあげました。

今、自分自身がアスリートとして食べるべき物は何かを常に考えながら、食事をとる。もちろん人間ですから、好きな食べ物や飲み物も当然あります。多くの人は「今日ぐらいいいだろう、少しぐらいはいいだろう」と栄養を考慮せずに好きな物を口にし、自分に癒しを与えますが、彼は妥協をしません。

またアスリートといえども、時には競技から離れて、友人たちとお酒を飲みながら開放感を味わいたいと思うこともあるでしょう。しかし、常にアスリートとしての最高の結果を求める彼は、友人たちと楽しく過ごす時間を少しでも身体を休めるための睡眠に当て、必要以上にそういった場に参加することはありません。

プロスポーツの世界で活躍できる人は、選ばれし才能をすでに持ち合わせている人たちですが、その中でも彼がさらに優れている点は、「求める力の強さとその実行力」、そして「求める姿のために費やす時間のかけ方」である、と結んでいたのが印象的でした。

つまり、自分自身の行動の結果が、今の姿を形づくっているということでしょうか。

神様のお言葉に、「善い事すれば善い理が回る、悪しきは悪しきの理が回る。(中略)理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く」とあります。(M25113

世界中の人々に対して、その姿をすべて見通しておられる神様の目は、絶対的に平等であるということ。善き事をすれば善き結果が表れ、悪い事をすれば、悪い結果として表れてくる、と教えられます。

私たちは誰しも家族が健康に恵まれ、幸せな毎日を過ごすことを望んでいます。しかし、現実には少なからず不安や不満を抱えながら日々を暮らしている人が多いのではないでしょうか。

日々、自分自身の成したことが結果として返ってくる。このことに気づく必要があると、神様は教えてくださっているのです。

50%の力で投げれば、50%の結果として自分の手元に返ってきます。100%の力で投げれば、100%の結果として返ってきます。

しかし、私たちは時に、50%の力で投げながら、100%の結果を待っていることがあります。極端に言えば、何も投げていないうちから、与えを待っていることさえあるかも知れません。

神様は、「まいたる種は皆生える」と教えられますが、裏を返せば、何事も種をまかずして、芽生えを見ることはできないのです。

現在、世界には80億人の人々が暮らし、80億通りの「幸せを求める心」があります。自分だけの幸せを求める種は、神様から見れば良い種ではないかもしれません。なぜなら、神様は世界中の人々を絶対的に平等な目でご覧になっているからです。

世界中の人々の幸せまで考えを及ぼすのは難しいかもしれませんが、せめて家族はもちろん、身近な周囲の人々の幸せを考えながら、それに向けて自らの行動を変えていくこと。これが良い種まきとなり、ひいては喜びの芽生えにつながるのではないかと思います。

目の前に起こる事柄に対して、それをどのように考えるか、またそれをふまえてどのように行動するか、私たち一人ひとりはそれぞれに「自由」を与えられています。この「自由な心」の使い方を変えていくことが、誰もが望んでやまない「幸せな毎日」につながっていくのではないでしょうか。

 


 

をびや許し、ほうその守り

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、

 

  ひろいせかいのうちなれバ
  たすけるところがまゝあらう(五下り目 一ッ)

 

  ふしぎなたすけハこのところ
  おびやはうそのゆるしだす(五下り目 二ッ)

 

とあります。

広い世界の中であれば、人々をたすける所があちこちにあるだろう。しかし、不思議なたすけをするのはこの元なるぢばであり、ここから「をびや許し」や「ほうその守り」を出す。このように仰せられています。

安産のご守護である「をびや許し」、また当時大流行した感染症、疱瘡をたすけるための「ほうその守り」がどのようなものであり、それらがなぜ人々にとって「不思議なたすけ」であったのか。当時の状況を振り返ってみましょう。

江戸時代の平均寿命は、現在の半分以下の三十歳から四十歳ぐらいだったと言われています。もちろん、当時でも六十や七十を過ぎるまで長生きした人は大勢いましたが、それでも平均寿命が短かったのは、当時は出産直後の母親と子供が、今よりはるかに多くの割合で命を落としていたことが原因でした。

そんな命がけである出産に関して、当時は安産祈願として、妊婦が出産の前後に「腹帯」をしたり、柿はお腹を冷やすなどの理由で「毒忌み」として避けたり、頭に血が上らないように「高枕」をしたりと、様々な慣習がありました。

教祖はそうした状況の中で、「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよいで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで」。だんないとは、大事ない、大したことはないという意味の方言ですが、をびや許しによって、そのような慣習に頼らなくとも安産できる道を教えられたのです。

また、当時は、たとえ無事に出産したとしても、その後の幼児死亡率が高く、その大きな原因となっていたのが疱瘡やはしかなどの感染症でした。

疱瘡にかかると、高熱とともに顔から全身へ赤い発疹ができます。ひどい場合は化膿した箇所から出血し、肺炎や腎炎などを引き起こして死に至ることもありました。

予防接種もまだ一般には広まっていない時代にあって、「ほうその守り」は、まさに不思議なたすけであったに違いなく、人々にとってどれほど有難いものであったことでしょう。

この「をびや許し」や「ほうその守り」を頂くに際して、何より肝心なのは親神様を信じ切ることです。こんな逸話が残されています。

清水ゆきさんという身ごもった婦人が、「をびや許し」を自ら願い出て頂いた時のこと。ゆきさんは「人間思案は一切要らぬ。親神様にもたれ安心して産ませて頂くよう」という教祖の仰せに反して、毒忌みなど昔からの習慣に従っていました。すると、出産後に高熱が出て三十日ほど寝込んでしまったのです。

そこで教祖にうかがうと、「疑いの心があったからや」とのお言葉があり、ゆきさんはこれに深く感銘し、心の底からお詫びをしました。

その後、教祖は産まれたばかりの赤子を預かってお世話をされ、ゆきさんも程なく全快しました。そして翌年、再び妊娠したゆきさんは「今度は決して疑いませぬ」と誓って、二度目の「をびや許し」を願い出ました。今度は教祖の仰せ通りにしよう、ひたすら親神様にもたれようと念じていたところ、不思議なほどの安産で、産後の患いもまったくありませんでした。(教祖伝第三章「みちすがら」)

当時のをびや許しは、教祖が直接お腹に息をかけられたり、撫でられたりするものでした。現在では、「をびやづとめ」に供えられた洗米を、「御供」として頂くことができます。

(終)

次回の
更新予定

第1293回2024年8月2日配信

「想い出ノート」はじめました

yamasaki
山﨑 石根

文:山﨑 石根

天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に

これまでのおはなしを聞く

おすすめのおはなし