
天理教の教会は、日本の国内各地、そして海外にもあり、その数一万六千余に及びます。
「みかぐらうた」に、「どうでもしん/\するならバ かうをむすぼやないかいな」(五下り目十)とあるように、教祖は早くから「講」を結ぶように促されました。そして、教祖が現身をかくされた翌明治21年(1888年)、ぢばに教会本部が設置されたのを機に、各地に結成されていた講から次々と教会が誕生しました。
教会には、親神様目標と教祖目標、ならびに歴代会長、ようぼく・信者の霊が祀られています。
教会は、親神様の思召を伝え広めるたすけ一条の道場であり、それぞれの地域社会における陽気ぐらしの手本雛型となることを目指しています。
会長は教会の芯として、ようぼくを丹精し、教会の使命である「おつとめと布教」の遂行につとめます。
教会には、教会本部直轄の直属教会と、直属教会に所属する部内教会の別があります。海外の教会は分教会ではなく「教会」と呼んでいます。
また、規模によって大教会(部内教会50カ所以上)と、分教会に分かれます。大教会は、すべて本部直属教会です。
お近くの教会の所在地は、各都道府県にある教務支庁へお尋ねください。
国内の地域拠点ページ
教祖がじきじきに作られた「みかぐらうた」という、おつとめの地歌があります。これは、ほぼ七五七五調の数え歌形式で、信仰上の歩み方が説かれています。
教祖が自ら歌を作り、曲をつけ、振付もされました。
おつとめでは、地方を中心に歌い、九つの鳴物を入れ、男女6人(本部のかぐらづとめは10人)が手振りをします。
歌と鳴物と手振りによる陽気なおつとめですから、どんな方でも親しみやすく、心が勇んでくることでしょう。
つとめ
天理教信者の信仰のかどめに「ひのきしん」という教えがあります。
私たち人間は、親神様から身体をお借りし、日々常に絶えざる親神様の十全の守護を頂戴して生きています。ひのきしんとは、そのご恩に報いる感謝の心からの行為であり、日常生活の中で絶えず心掛けていくものです。
つまり、かしもの・かりものの理が真に心に治まった時、その喜びと感謝が、おのずから行動となって表れるのがひのきしんです。まさに、ようぼくらしい生き方、お道ならではの暮らし方ということができましょう。
ぢばに伏せ込むひのきしん、それぞれの教会での御用をはじめとして、広く地域社会で人の役に立つ活動などと、その表れ方は実にさまざまです。
いずれも、親神様への感謝の心を根底に置いた、親神様にお喜びいただきたいという行為です。人が見ていようといまいと、倦まずたゆまず積み重ねる真実の実践を、親神様がお受け取りくださるとともに、知らずしらずのうちに自分自身の心のほこりが払われ、勇みがわいてきて、運命が明るく開けてきます。
こうしたひのきしんは、親里や教会での実践にとどまらず、公共施設の清掃や福祉施設での活動、献血、天理教災害救援ひのきしん隊の活動など、信仰に基づく地域社会での「たすけあい」活動としても展開されています。
ひのきしんは、基本的には神恩報謝の思いによる一人ひとりの信仰実践です。しかし、一人では行動しにくいという人も少なくありません。また、一人の力では及ばないこともあります。
そこで、教会や教区(都道府県単位)・支部(地域ごとに設定)では、日を決めて公共の施設などでひのきしん活動を行っています。また、毎年春には日を定めて「全教一斉ひのきしんデー」が行われます。
ひのきしん
「世界たすけ」「人だすけ」「病だすけ」「事情だすけ」などと、よく使われる言葉です。
世界たすけとは、世界中の人が一人残らず陽気ぐらしができるようになることであり、人だすけ、病だすけなどは、いま病むところをご守護いただき、やがてその人の心が神様の思いに近づくよう、手引きをすることと言えるでしょう。それが、たすけること、たすかることです。v教会本部や、各地の教会での「おつとめ」は、その手だてとして教えられたものです。特に、病だすけの手だてとしては、「おさづけの理」を授けてくださいます。
しかるべき手順を踏んで願い出れば、「おさづけの理」を戴くことができます。これを戴いた者が、病み苦しんでいる人にその理を取り次ぐことで、心次第にご守護を頂けるというものです。
おさづけは、決してまじないのたぐいではありません。あくまで、親神様のご守護によってたすかるのであり、取り次ぐ人の、なんでもどうでもたすかっていただきたいという誠真実によって、親神様のお働きが頂けるのです。もちろん、受ける側(本人あるいは家族)の心づもりが大切であることは言うまでもありません。
陽気ぐらし世界へ向かう途上にあって、いつの世も人の患いや悩みはついて回るものです。それらを取り除き、心を磨いて、共々に成人に努めたいものです。
さづけ
病だすけの手だてとして「おさづけ」をお教えいただいていますが、だからといって、医薬を否定されてはいません。
むしろ「修理や肥に医者薬」と、田を修理し肥を施すことで豊かな実りが得られるように、体の手入れに医者や薬を活用することを認められています。
病院の正式名称は、「公益財団法人天理よろづ相談所」ですが、通常は「憩の家」の名で親しまれています。この名前には、健康を損なった人々が、親里ぢばで、体の患いだけでなく、心の疲れも癒やして再び元気になって社会へ復帰してもらうための“憩の家”でありたい、との願いが込められています。
そのため「憩の家」は、「身上部」(いわゆる一般の病院に当たる)、「事情部」(病気や悩み事に対して、教えに基づいた助言を行う)、「世話部」(患者の生活上の諸問題の相談や、医療従事者の育成などを行う)の三つの部門を設け、医学・信仰・生活の三面から、病む人の救済に当たっています。
天理よろづ相談所「憩の家」ホームページへ
人間はなぜ造られたのかという親神様の思いを、広く知ってもらいたいからです。
「にをいがけ」とは、匂い掛け。お道の匂いを、親神様を信仰する者の喜び心の匂いを、人々に掛けていくことをいいます。単なる宣伝や勧誘ではなく、真のたすかりの道にいざなうための働きかけです。親神様のありがたさを世の人々に伝え、信仰の喜びを広め分かち合うことは、何よりのご恩報じだという思いからの行いです。
【人をたすけて、わが身たすかる】
「おふでさき」に、「しんぢつにたすけ一ぢよの心なら なにゆハいでもしかとうけとる」(三号38)、「わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる」(三号47)と教え示されています。人にどうでもたすかっていただきたいと願い念じ、真実を込めてにをいがけに努める中に、結果として自らも結構なご守護を頂戴することができるとお教えいただきます。『稿本天理教教祖伝逸話篇』42「人を救けたら」には、そうした先人の姿が記されています。
また、中山正善二代真柱様は、人だすけに励む姿自体がたすかっている姿だと、ご教示くださいました。
【参拝の仕方】
・かんろだいに向かって正座
・両手をついて一拝
・拍手4つ
・両手をついて礼拝
お願い事やお礼などを申し上げる
・拍手4つ
・両手をついて一拝
●本部神殿では……神殿・礼拝場では、まず、かんろだいに向いて正座。両手をついて一拝し、四回手をたたいて(四拍手)両手をついて礼拝をします。お願い事やお礼、また、お詫びやお誓いなどを申し上げます。礼拝が終わったら四拍手し、両手をついて一拝します。
神殿では、朝夕のおつとめと同じ手振りのおつとめをして参拝します。教祖殿、祖霊殿では、一拝・四拍手・礼拝・四拍手・一拝をして、参拝します。
●教会では……各地の教会では、中央に親神様、右に教祖、左に祖霊様が祀られています。親神様、教祖、祖霊様の順に、それぞれ一拝・四拍手・礼拝・四拍手・一拝をして参拝します。もちろん、朝夕と同じ手振りのおつとめをして参拝すれば、よりていねいです。
教祖は明治20年にお姿(現身)をかくされました。しかし、それ以後も存命同様に働く、世界中を駆け巡り、いまからたすけする、と神様はおっしゃいました。
本部の教祖殿は、単なる霊舎ではなく、教祖が世界たすけのために日夜お働きくださるお住まいなのです。
したがって、婦人らがおそばに仕えて、三度の食事を用意し、お風呂を沸かすなどして、教祖のお世話に当たっています。
教祖が日々にお召しになった赤衣を下ろして裁ち、それを「お守り」として、願い出た人へ下付されます。
教祖存命の理は、信仰の生命でもあります。
教祖
天理教では、人の死を「出直し」といいます。親神様からの「かりもの」である身体をお返しすることを指します。
出直しの語は元来、「最初からもう一度やり直すこと」を意味することからも察せられるように、死は再生の契機であり、それぞれの魂に応じて、また新しい身体を借りてこの世に帰ってくる「生まれ替わり」のための出発点であることが含まれています。
前生までの心の道であるいんねんを刻んだ魂は、新しい身体を借りて蘇り、今生の心遣いによる変容を受け、出直し生まれ替わりを経て、また来生へと生まれ出ます。
一般的には、誕生はめでたく、死は何か暗い、忌まわしいものと考えがちですが、本教では「出直し」「生まれ替わり」と教えられます。
死は、それで終わり、それっきりというようなものではなく、生まれ替わり、つまり再生のための節目、出発点であるということです。
少し考えてみれば分かることですが、死がなければ誕生もあり得ません。死ぬ者がなくて生まれる者ばかりであったら、たちまち地球は人であふれかえってしまいます。そう考えますと、誕生と死は一つのものであり、切り離すことのできないものであることが分かります。
連綿と続く生命の営み、命のサイクルの節目を言い表す「出直し」「生まれ替わり」。その言葉自体に、死というものが終わりではなく、再生へのスタートであり、誕生が単なる生命の始まりではなく、前生よりの命を引き継いでいるものであることが含意されています。大きな生命の流れの中でのバトンタッチを繰り返しながら、陽気ぐらしへの歩みが進められるのです。
出直し・生まれ替わり
だめとは、だめ押しの略で、元来は囲碁の用語。勝負を確定する局面を指すところから、総仕上げ、最終的、究極的の意味で用いられています。『天理教教典』には「十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点、元の親を知らして」と、人間創造の元の神がつけられた陽気ぐらしへのたすけ一条の道であることが記されています。
したがって、他宗の教えも、親神様がその時と所に応じて現された修理肥の教えであり、敬意を払うよう教えられています。
「おさしづ」には、「元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でない。ほん何でもない百姓家の者,何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け」(明治21年1月8日)とお教えいただきます。
親神様じきじきの啓示の書である『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』を三原典といい、本教の教義はこれらに基づきます。
『おふでさき』は、神のやしろとなられた教祖が、自ら筆を執って記された書き物で、十七号、千七百十一首のお歌からなっています。教えの全容が述べられていますが、特につとめの完成を最大の眼目としています。
『みかぐらうた』は、つとめの地歌として教えられたもので、五節からなり、かぐらの地歌(第一節~第三節)と、てをどりの地歌(第四節=よろづよ八首、および第五節=一下り~十二下り)に分かれます。手振りが付き、特に後者は数え歌になっていることから、最も身近で親しみやすい教えの書でもあります。
『おさしづ』は、教祖ならびに本席様による口述の教えを筆録したものです。親神様の方からその時々に応じて神意を述べられたものを「刻限のさしづ」、人間の側からの伺いに対して答えられたものを「伺いのさしづ」といいます。
『天理教教典』……原典に基づき、教会本部が教義の大綱を体系的に編述した書物。信仰の基準となる正統教義を示すとともに、信仰生活の拠り所ともなるものです。全十章からなり、前後各五章の前篇、後篇を、それぞれ内容によって教理篇、信仰篇とも称します。昭和24年(1949年)刊行。
『稿本天理教教祖伝』……教会本部が編纂した教祖中山みき様の伝記で、唯一の権威本教祖伝です。「おふでさき」に基づき、史実を踏まえて編述されたもので,教祖のひながたをたどるという信仰実践の基準ともなるものです。昭和31年刊行。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』……『稿本天理教教祖伝』が理を明らかにすることを主眼とするのに対し、信者たちを教え導かれた教祖の親心あふれるお姿をほうふつとさせる200編の逸話を収録したものです。昭和51年刊行。
原典・教義書
あれをしてはいけない、これをしなければいけないというような規則はありませんが、何事も、親神様の心に沿ってさせていただくという、心の使い方が大切だとお教えくださいます。
親神様の思召に沿わない心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいます。
ほこりは吹けば飛ぶような些細なものですが、油断をしていると、いつの間にか積もり重なり、ついには、ちょっとやそっとではきれいにならないものです。
それと同様に、心遣いは、銘々に「我がの理」として許されてはいますが、思召に適わない自分中心の勝手な心を使っていると、やがて心は曇り濁って、親神様の思召も悟れなければ、十分なご守護も頂けなくなってしまいます。
これが、身上の障り、事情のもつれともなって現れます。
このほこりの心遣いを反省し、払う手掛かりとして、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八つのほこりを挙げ、さらに、「うそとついしょこれきらい」と心遣いの間違いを戒められています。
教えの理を聞き分け、心の定規として、心遣いを改めるならば、心はすきやかとなり、身も鮮やかに治まります。これを「神がほうき」と仰せられます。
をしい | 心の働き、身の働きを惜しみ、税金や納めるべき物を出し惜しむ。また、世のため、人のための相応の務めを欠き、あるいは、借りた物を返すのを惜しんだり、嫌なことを人にさせて自分は楽をしたいという心。 |
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ほしい | 努力を怠り、十分な働きもしないで金銭を欲しがり、分不相応に良い物を着たい、食べたい、また、何によらず、あるがうえにも欲しいという心。 |
にくい | 人の助言や忠告をかえって悪く取って、その人を憎む。また、嫁姑など身内同士の憎み合い。さらには、人の陰口を言ってそしり、笑い、あるいは罪を憎まず人を憎むという心。 |
かわい | 自分さえ良ければ人はどうでもよい。わが子への愛に引かされて食べ物、着物の好き嫌いを言わせ、仕込むべきことも仕込まず、間違ったことも注意しないで、気ままにさせておくという心。また、自分のために人を悪く言うのもほこり。 |
うらみ | 体面を傷つけた、望みを妨げた、どう言ったと自分の不徳を思わず、人を恨み、根に持つような心。 |
はらだち | 人が悪いことを言った、意に反することをしたと腹を立てる。理を立てず、我を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないで腹を立てるような心。 |
よく | 人より多く身につけたい、取れるだけ取りたいという心。数量をごまかし、人を欺して利をかすめ、あるいは盗み、取り込むなど、何によらず人の物をただわが身につけるのは強欲。また、色情に溺れるのは色欲。 |
こうまん | 力もないのに自惚れ、威張り、富や地位をかさに着て人を見下し、踏みつけにする。また、頭の良いのを鼻にかけて人を侮り、人の欠点を探す、あるいは知らないことを知ったふりをするような心。 |
「身上・事情は道の花」という言葉があります。
身上とは病気のこと、事情とは生活上の悩みのことです。
長い信仰生活をするうえで、彩りを添えてくれ、“話の種”にもなるのが身上・事情であるという、明るい悟り方ともいえます。
天理教では、病気や事情の悩みは、親神様の“てびき(手引き)”や“みちおせ(道教え)”と教えられます。子供(人間)が間違った道へ進もうとするのを、親(親神様)が手を引いて、正しい方向へ導いてくださるという意味です。
マイナスに思える要因でもプラスに転じて、大きく心の成長を遂げる機会ととらえるのです。
「女松男松の隔てなし」というのが原則です。どちらか一方が従属するというような考え方はなく、人間創造のときから同等です。したがって、天理教における最高の儀礼である「かぐらづとめ」も、男性と女性が各5人ずつで勤めます。
ただ、同じことをするというのではなく、それぞれの特性を生かして働き、補い合い、たすけ合うことが大切です。
「二つ一つが天の理」ともいわれ、相反する二つのものが一つになって協力するところに、新たないのちが生まれるとお教えいただいています。
教祖の教えは、幕末当時の封建的な社会にあって、平等であることを説いておられたのです。
本部神殿を参拝する際、特に申請も受付も必要ありません。南礼拝場は二十四時間開放されていて、いつでも誰でも参拝することができます。
なお、本部神殿の境内地の西側にある「インフォメーションセンター」では、参拝者の便を図るためにさまざまなサービスが用意されています。
神殿・教祖殿・祖霊殿への係員による案内、親里で行われる行事の紹介、境内地用の車いすの貸し出し、天理市内の道案内、手荷物一時預かり、迷子などです。
また、神殿内や境内地で落とし物や忘れ物をしたときは、境内地の東側にある「境内掛本所」へお尋ねください。