第1387回2026年5月22日配信
心配
「心配」は、自身が思い悩むことと、人を気にかけるという正反対の意味を持つ。人への気配りを心がけたい。
心配
どんなに環境に恵まれても、物に囲まれていても、心が曇っていては、せっかくの有り難い境遇も意味をなさなくなってしまいます。これから先、どうなるのであろうか、何か悪いことが起こりはしないか。先行きを案じるのは私たちがどうしても消せない癖・性分であると言えるでしょう。
神様のお言葉に、「明らかな心に心配は要らん。心配するというは心に曇りあるから」(M24・11・15)とあります。
辞書では「心配」という言葉について、「これから先のことなどが気がかりで、心を悩ませること」という意味と共に、「心にかけて世話をすること」と、二つの意味が説明されています。
同じ「心配」でも、心を配って人のお世話をするのと、心にかけて思い患い、不安に思うのとでは、まるで正反対の心遣いです。常に人のことを気にかけ、心を配る。すなわち人をたすける心を優先させれば、自らの憂いは自ずと取り払われていくのではないでしょうか。
今、この一瞬々々にも、元の親である親神様のご守護を感じ、生かされて生きていることを自覚し、感謝すること。それが、心の憂いを取り払い、明るく勇んで通る第一歩です。
お言葉に、「一日と言えば、朝結構という中に、明日という」(M25・6・3)とあります。
新しい朝を迎え、目が覚める。今日も新しい一日をお与え頂いた。私たちは親神様のあたたかい懐に抱かれ、導かれているのだから、何も心配することはない。そうして、「朝を結構」と通る中に、明るい日々が、今日、明日という日が開かれていくのです。
もちろん私たちの日常は、喜び事ばかりに囲まれているわけではありません。時に憂うつな出来事にあい、戸惑う時もあります。しかし、一日を喜び一杯につとめ切れば、「勤まった日は夕景安楽という」(M25・6・3)とのお言葉通り、安らかな気持ちで夜を楽しめるというご褒美が待っています。
さあ、今日も一日、勇んで通らせて頂きましょう。
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