第1394回2026年7月10日配信
「かわい」のほこり
「可愛い」とは誰もが持つ純粋な気持ち。しかし、わが身さえ良ければという自分本位の考えが「ほこり」となる。
「かわい」のほこり
この教えは、陽気ぐらしへ向けて自ら心を入れ替えていく教えです。親神様は、陽気ぐらしに反する自分中心の心遣いを「八つのほこり」として戒められています。その中の一つ「かわい」のほこりについて、次のように教えられます。
「かわいとは、わが身さえ良ければ、人はどうでもよいという心。わが子を甘やかして食べ物、着る物の好き嫌いを言わし、仕込むべき事も仕込まず、間違った事も意見せず、気ままにさせておくのは、よろしくありません。また、わが身を思って、人を悪くいうのもほこり。わが身わが子が可愛ければ、人の事も思い、人の子も可愛がらねばなりません」
この洋服は可愛い、あの猫は愛らしい。そのように「可愛い」と思うこと自体は、素直で純粋な心遣いであり、何らほこりの対象とはなりません。しかし、一つの物に対してあまりに固執し過ぎてしまったり、また、自分が可愛い、わが子が可愛い、それ故、他人はどうなっても構わないという偏った愛情は、ほこりとなってしまいます。
身近に長く一緒にいる人に深い愛情が芽生えるのは、ごく自然なことです。しかし、その愛情の高まりゆえに、周囲の人々が目に入らなくなり、気づけば自分本位の考えに陥ってしまう。その隔て心こそ、陽気ぐらしへの道の妨げとなるのです。
教祖直筆による「おふでさき」には、
月日にハみな一れつハわが子なり
かハいゝばいをもていれとも (八 60)
一れつのこどもハかわいばかりなり
とこにへたてわさらになけれど (十五 69)
とあります。
その分け隔てのない親心については、先人が次のように語り継いでいます。
「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。
どんな偉い人が来ても、『御苦労さま』物もらいが来ても、『御苦労さま』その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。皆、可愛い我が子と思うておいでになる」(教祖伝逸話篇195「御苦労さま」)
そして、その教祖のお姿にふれると、どんな人でもすぐさま感化されて心を入れ替えたというのですから、その包容力には驚くほかありません。
この教祖の深い親心に近づくことは到底叶いませんが、わが身わが子を思う気持ちを、少しずつでも人様のほうへ向けてゆく。そうして、「かわい」のほこりを取り払っていきたいものです。
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