第1397回2026年7月31日配信
修行
修行のストイックなイメージと、天理教の信仰実践とはどう違うのか。教祖は「里の仙人」とよく仰った。
修行
宗教における修行とは、全身全霊を打ち込んで、真の知に到達するための実践であり、日頃私たちを捉えて離さない身体(しんたい)からの精神の脱却を目指すものです。そしてそれは、本来個人的なものとして、日常から離れた神秘体験を得たり、超自然的な能力を獲得することを目指します。つまりは「自らのために」という目的が第一義であり、そこに他者の入り込むすきはありません。
天理教の信仰においては、「里の仙人」ということがよく言われます。これは従来、修行者が世俗から隔離された所にあり、「山の仙人」と呼ばれてきたのと対比されてのことであると考えられます。
教祖・中山みき様「おやさま」は、晩に冷たい川の水に浸かってから、おたすけに回っていた者に、「この道は、身体を苦しめて通るのやないで」とお諭しになっています。
つまり「里の仙人」とは、どこまでも人と人との交わりという日常の経験の場にありながら、親神様の教えを心に治め、実行していくことを言われたものです。そこには、修行という言葉から一般的にイメージされる身体に負荷をかけるような様相は、どこにもうかがうことは出来ません。
では、天理教における修行とは、どのようなものか。次のようなお言葉があります。
「修行という、心の身を磨きに出るのや。修行、大切に扱うては修行にならん。そら水汲みや、掃除や、門掃きやと、万事心を磨くのが修行。」(M23・3・17)
ここに明らかなように、修行といわれるものが水汲み、掃除といった日常性の中にあることを示されています。すなわち、あくまでも日常の経験の中で、そこにあらわれる様々な出来事に関わりつつ、心のほこりを払う中に、親神様の真意を見出すことを求められているのです。
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