第1370回2026年1月23日配信
むらかたはやくにたすけたい
立教当初、近隣の農家の人々は、それまでの心安さゆえに、教祖が神のやしろとなられたことを理解できずにいた。
むらかたはやくにたすけたい
江戸末期、この教えが伝え始められた頃は、人口のおよそ八割の人々が農業に従事していたと言われています。お言葉に出て来る「村方」とは、その農家の人たちのことを指します。
直筆による「おふでさき」に、
村かたハなをもたすけをせへている
はやくしやんをしてくれるよふ (四 78)
とあるように、教祖は近隣の村方の人々をとても気にかけておられます。「一に百姓たすけたい」と仰せになったのも、困窮する農家の多い時代、人々が食糧に困らぬように陽気ぐらしへ導いてやりたいという、まさに人類の母親ゆえの思召しからであると言えましょう。
その一方で、「みかぐらうた」に、
むらかたはやくにたすけたい
なれどこゝろがわからいで (四下り目 六ッ)
とあるように、そうした教祖の親心が、当時、お屋敷の近隣に住む人々にはなかなか伝わらなかったのです。
人々は、普段から身近に教祖に接しているがゆえに、その心安さもあって、教祖が神のやしろとなられたことを理解できなかったようです。ましてや、「貧に落ち切れ」との神様の思わくのままに、食べ物や着る物、家財道具や金銭、田畑まで次々に施されるのですから、驚くのも無理のないことでしょう。
そうしたなか、誤解を解かなければたすけの道が前へ進まないとの思いから、教祖自らお針の師匠をつとめられたり、また息子の秀司さんは寺子屋を開き、近所の子供たちに読み書きなどを教えられました。こうして村人たちは少しずつ、教祖の行いが憑き物や気の違いによるものではないことを理解していったのです。
このような逸話が残っています。
明治八年九月二十七日、この日は、教祖の末女・こかん様の出直した日です。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと聞いては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに出ました。
葬式の翌日、後仕舞の膳の席で、村人たちがこかん様の生前の思い出を語っていました。そして教祖に思いを致し、話し合ううちに、「ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかった」と、中には涙を流す者さえありました。
そこで「わし等も、村方で講を結ばして頂こうやないか」と相談がまとまり、その由を教祖に申し上げました。講とは村々における信者の集まりのことで、いわば賑やかにおつとめがつとめられるわけですから、教祖は大層お喜び下さいました。
こうして、最初はお屋敷へ疑いの目を向けていた村方の人々へも、徐々にこの教えが広まっていったのでした。
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