第1366回2025年12月26日配信
尽くした理は末代
人生は時間が限られており、人はその中で何らかの成果を求めるもの。魂は生き通しであると信じる信仰者でさえ…。
尽くした理は末代
日ごろ私たちは、どれくらいの時間の幅を意識しながら生きているでしょうか。理想と情熱に燃える若き時代は、何十年先の将来を見つめていたこともあるでしょう。仕事や子育ての慌ただしさの中で、今日明日のことしか考えられない時期もあるかも知れません。その状況や年齢によって、時間の価値や感じ方が違うのは当然のことです。
いずれにしても、総じて人の視野には、自分の一生という限られた時間しか映ってこないのが普通のことのようです。人生八十年、九十年は当たり前、百年時代の到来とも言われる昨今ですが、その年月の中で、自ら成したことの結果を求めるのが人間というもの。
この教えを聞き、人間の魂は生き通しで、生まれかわり出かわりをするという「出直し」の教理を信じる者でさえ、一生の枠を超えて思案をめぐらすのは容易なことではありません。前生や来世のことは、私たちには分からない神様の領域の話です。
しかし、神様の教えの中には、「末代」という言葉がしばしば出てきます。一代、二代、三代と世代を重ね、いのちが途切れず続いてゆく。それは私たち人間にとっては大きな慶び事です。そうした視点で神様のお言葉を味わってみると、そこには悲観的な未来よりも、より発展的な未来を想像することができます。
「尽した理は一代やない、二代やない。末代捨てさしゃせん」(M28・5・16 補遺)
「人間は一代、一代と思えば何でもない。なれど、尽した理働いた理は、生涯末代の理である」 (M37・3・3)
道の上に尽くした理は、これから先、代々、いついつまでも消えることはない。目先にとらわれがちな私たちの人生観を、根本から変えるお言葉であり、まさに生き方の大転換を迫られているようです。
日々の心を尽くす行いを、必ず神様がお受け取り下さり、末代にわたって消えることのない理として残る。そのことが、どれほどの安心と救いになるでしょう。精一杯の努力をして、たとえその場は報われなくとも、まいた種が後々に芽を吹くのだと知れば、心は大いに勇み立ってきます。ともすれば、心を倒しそうになることの多い私たちを、これほど励まして下さるお言葉はないと思うのです。
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