第1249回2023年9月29日配信
もっと結構
泥棒に何も盗られずに済んだ、と喜ぶ者に掛けられた教祖のお言葉。それは我々には予測不可能なものである。
もっと結構
天理教教祖・中山みき様「おやさま」をめぐっては、数々の逸話が残されています。それらは、我々の人間思案では到底及ばないような、まったく予測不可能な数々のお言葉であふれています。
明治七年のこと。西浦弥平さんは、長男の病気をたすけられて以来、熱心に信心を続けていました。ある日のこと、教祖のお屋敷から戻って夜遅く布団に入ったところ、床下でコトコトと音がします。「これは怪しい」と思い、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が「アッ」と言って闇の中へ逃げて行きました。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていました。
弥平さんは、何も盗られなかったことを大層喜んで、翌朝さっそく教祖のもとを訪ねました。弥平さんが、「お蔭で、結構でございました」と心からお礼を申し上げると、教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」と仰せになりました。弥平さんは、そのお言葉に深い感銘を覚えたのでした。(教祖伝逸話篇39「もっと結構」)
弥平さんの「お蔭で、結構でございました」とのお礼の言葉は、「信心のお蔭で何も盗られずに済んだ」という、実に素直な反応です。しかし、それに対して教祖は、「もっと結構なことがありますよ」と諭されます。この二つの「結構」は、どう違うのでしょうか。
「盗られずに済んで、結構だった」という答えの裏には、盗人に対する大きな不足が隠れています。「おかげで盗られずに済みました。しかし、けしからんヤツです。人のものを盗もうなんて…」
それは、盗人という悪者から守られた「結構」です。
それに対して、教祖の「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」とのお答えの中には、悪者がいません。「ほしい人」と「もらってもらう人」、どちらも悪者ではありません。
教祖からご覧になれば、どんな境遇にある者も、皆可愛い我が子です。片や、盗みを働かなくてはならないほど、つらい人生を送っている子ども。片や、盗られなくて良かったと、無邪気に喜んでいる子ども。どちらも同じように可愛い。そのどこまでも深いご慈愛が、自然に教祖のお口からこぼれ出たのが、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」とのお言葉ではないでしょうか。
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