(天理教の時間)
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第1407回2026年10月9日配信

転んで見えたもの

家族円満 花田浩美
花田 浩美

文:花田 浩美

第1220回

見抜き見通し

教祖は同じお供え物でも、品物の内容より、その人の真心をお喜びになる。どんな心も見抜き見通されるのだ。

見抜き見通し

 

月夜の晩に、貧しい男が子どもを背負って道を歩いていると、あるお屋敷の塀越しに、柿の木の枝が伸びて実がなっていた。男が、ひもじい思いをしている子どもに食べさせてやろうと、手を伸ばして柿の実を取ろうとした。すると背中の子どもが、「とうちゃん、お月様が見ているよ」。男はハッとしてその手を引っ込め、柿を盗まずに済んだのだとか…。

この話、もし子どもが「とうちゃん、誰かが見ているよ」と言っていたら、周りを見回して「誰も見ていないから大丈夫だ」と人間心が顔を出したかもしれませんが、「お月様が見ている」となると、隠れようがありません。まったく、子どもの一言によって父親は救われたのでした。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」を巡って、次のような逸話が残されています。

 

ある年の暮れに、一人の信者さんが立派な重箱にきれいな小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい」と持ってきました。側の者がさっそく教祖にお目にかけると、いつになく「ああ、そうかえ」と仰せられただけで、ご満足の様子はありませんでした。

 それから数日して、別の信者さんが、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます」と言って、粗末な風呂敷包みを出しました。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていました。また側の者がお目にかけると、今度は「直ぐに、親神様にお供えしておくれ」と、非常にご満足の様子でした。

これは後で分かったことですが、先の人はかなり裕福な家の人で、正月についたお餅が余ったので、それを持ってきたに過ぎず、後の人は貧しい家の人でしたが、やっとのことで正月のお餅をつくことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を」と、そのつき立てのところを持って来たのです。教祖には、二人の人の心が、ちゃんとお分かりになっていたのでした。

こういう例はたくさんあったようで、その後、多くの信者さんが珍しいお供え物を持ってきた時にも、教祖は、品物よりも、その人の真心をお喜びになるのが常でした。そして、中に驕り高ぶったこうまんの心で持ってきたようなものがあると、たとえそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない」と仰せられました。(教祖伝逸話篇 7「真心の御供」)

 

私たち人間の世界では、誰かが悪いことをしても、その悪事がすべて露わになり、きちんと法の裁きを受けるとは限りません。逆に、どんなに善い行いを重ねても、それがすべて世の人々の称賛の的になるとも限りません。悪が栄え、善が陰に追いやられるようなことも、人間社会では往々にして見られることです。

しかし、私たちのどのような行いや心遣いも、神様には全て通じていて、善悪共に見分けてくださる。そう信じてこそ、安心して人生を送れるのではないでしょうか。この逸話を深く味わい、神様のお喜びくださる心尽くしで、日々を過ごしたいものです。

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