第1124回2021年5月1日・2日放送
「美味しいね」は、嬉しいね
晩年、特養ホームに入所した母。せめてささやかな恩返しをしようと、訪ねる時は必ず母の好物を持参した。
「美味しいね」は、嬉しいね
奈良県在住・看護師 松尾 理代
それまで病気らしい病気もしたことのなかった母が、重い病に倒れたのは、2009年、76歳の秋。
両親は、結婚と同時に大阪に単独布教に出て教会を設立し、人だすけに奔走してきました。母が倒れたのは、その教会を長男夫婦に委ね、天理市にある信者詰所に移り住んでからわずか12日後のことでした。
その日、病院での仕事が終わる頃に「夕ご飯、食べに来ない?」と電話をしてきた母。「今朝、便に血が混じってたのよ」と気になることを言います。聞けば、出血はまだ続いており、少し身体がふらつくとも。すぐに、私の勤める天理よろづ相談所病院「憩の家」の救急外来に来たほうがいいと伝えました。
着いた時には顔色が悪く、ふらついていたので車椅子に乗せました。診察を待つ間にトイレで大出血し、検査をするとかなりの貧血でした。急いで輸血の準備をし、内視鏡検査。ところが出血箇所がなかなか判明せず、その間も出血は止まりません。そのまま入院となりました。
医師によれば、大腸の壁に薄い部分があり、そこが破れたとのこと。その部分を切り取るか、焼いて止血をするしかないと言います。その後も血圧が下がり、出血も続いていたので、父と本部の神殿に走り、必死にお願いをしました。
翌朝、駆けつけた家族みんなで噛みしめたのは、「おぢばにいて良かったなあ」ということ。もし地元の大阪・守口の教会だったら、こんなに素早く対処してもらえなかっただろうと。200ミリリットルのボトル15、6本分ぐらいの輸血をしたように記憶しています。
何とか命をつないでいただいた母ですが、その二年後、今度は頭痛がすると検査を受け、脳動脈瘤が見つかりました。医師からは「瘤が破裂すれば、悪くすると死に至る。たすかっても麻痺が残る可能性が高い」と手術を勧められました。
しっかり者の母は、「動けなくなるよりは」と自ら手術することを決めました。そして、身の周りの準備を整えた入院予定日の未明、真夜中の信者詰所で突然倒れてしまったのです。
幸い、「なにか変な音がする」と起きてきた信者さんが、廊下に倒れていた母を見つけて、すぐに電話をくださいました。駆けつけると大いびきをかいています。呼吸と脈拍を確かめ、すぐに「憩の家」に連絡をしました。
病院に着くと、母の手術をする予定だった医師が、前日の手術が長引いたせいで、偶然院内に残っていました。おかげで午前四時から緊急手術が開始。私たちにできることは、神様におすがりすることだけ。駆けつけた弟と、父と三人で本部神殿に走り、ぬかずきました。
術後、なかなか意識が戻らず心配しましたが、家族だけでなく、教会につながる信者さんをはじめ多くの方々の祈りの中で、二週間後には人工呼吸器が外れ、集中治療室から一般病棟に移ることができました。この時も、倒れたのが大阪の教会ではなく、おぢばの詰所だったこと、しかも夜中に信者さんが起きてきて、偶然母を見つけてくださったことに、驚き、喜び、感謝しました。
それから一カ月後、私たちはさらに驚き、喜ぶことになりました。脳に障害を受け、しばらく言葉も出なかった母ですが、孫がお見舞いに来ると、その子の名前を突然呼んだのです。顔にも久しぶりに笑顔が戻っていました。
その後、母はリハビリ病院に移りました。普段の表情は暗く、受け答えも難しい状態。ところが、好きな料理の話をすると表情が明るくなり、好きな歌を私が口ずさむと、一緒に口を動かすのです。スーパーのチラシを持って行くと、何やら指を動かすのでペンを握らせてみました。すると、「玉子10個、しいたけ、レンコン、コーヤドウフ」と、自分の得意料理の材料を次々書いていくのです。
やはり母の好きなことをしてもらうのが一番と、外泊の許可をもらって詰所へ帰り、大好物のちらし寿司を作りました。子供や孫が大集合したこの日は、ちょうど私の妹の誕生日で、みんなでケーキづくりも。母はおぼつかない手つきでお好み焼きを上手にひっくり返すと、飛びっきりの笑顔に。大好きな家族に囲まれ、嬉しさにあふれていました。
介護保険の認定調査の時には、調査員の質問に言葉ではっきり答えられない母が、手話で自分の名前を伝えるひと幕もありました。実は母は若い頃、毎週、教会で手話教室を開いていたのです。人は本当に好きなことや大切だと思っていること、生きがいだったことは、脳に障害を受けてもしっかり残っているのだと感動しました。
それから5年後、母は生まれ育った町にほど近い、特別養護老人ホームに入所することができました。私はホームを訪ねる時には、必ず母の好物を持参していきました。
「お母さんの好きなもの持ってきたよー」と言うと、「穴子か?」と返事が。「甘いものあるよー」と言うと、「きんつばか?」「モンブランか?」。楽しいと感じた時には、少し声が出やすくなるようで、言葉に出して答えてくれます。一緒に舌鼓を打ち、「美味しいね」「なつかしいね」と笑い合います。
これは、私のささやかな恩返しでもありました。母は大阪から天理に参拝に来る時には必ず、「何が食べたい?」と電話をしてきました。そして、ちらし寿司や巻き寿司、お赤飯、豆ごはん、栗ごはん、鯛めし、煮物などを私の友人や同僚の分まで作り、その重い荷物を抱えて、京阪電車と近鉄電車を乗り継ぎ、二時間かけて届けてくれたのです。その美味しかったこと、嬉しかったこと。そのお礼がようやくできた思いでした。
母と二人、時に姉夫婦や妹と一緒に、楽しく美味しく食事をしたら、それから母の顔や手足をマッサージして、顔を剃ってあげます。リラックスしたところで、母の好きな歌「おやがみさま」や「瀬戸の花嫁」を歌うと、手話で一緒に合唱。穏やかな、忘れられない時間が流れました。
妹と最後に母を訪ねたのはおととし、2019年12月8日。ちょうど合唱団の慰問演奏会の日。車椅子を押して、一緒に「ふるさと」を聴いていると、母の手が私の手の上でリズムをとったのです。「トントン、トントン」、命の鼓動。
その日の夕刻、私たちが帰路に着いた頃、母は静かに旅立ったのでした。