第1196回2022年9月17日・18日放送
種は正直
「種は正直や」と、若い頃よく聞かされた。善き種を蒔けば善き実がなる、その逆もまた然り、と。
おさしづ春秋『種は正直』
善き種蒔いたら善き実がのる。(M36・3・30)
農作物の種には、それぞれ蒔く旬というものがあるけれども、たとえ蒔くべき旬に蒔かずにいても、その季節は何事もなかったかのように終わり、次の季節へと移っていく。むろん実りも収穫もありはしない。旬とは、そういうものである。
若いころ年寄りからよく、種は正直と聞かされた。きゅうりの種を蒔けば、きゅうりの実がなる。ナスの種を蒔けば、ナスの実がなる。きゅうりの種を蒔いて、ナスの実がなることはない。種は正直や。
たまに、「私は生涯、一筋にきゅうりの種蒔きをしてきた。どんな中も一心にきゅうりの種を蒔いてきた。ところが、どうしたことかナスの実がなった。何たること。いったい私の通ってきた道はなんだったのだ」と、不足をする人がいる。
その人は生涯きゅうりの種を蒔いてきたつもりでいるが、じつはナスの種を蒔いてきたのである。種は正直や、と。
また、「人は落ち目になりたるとき、なお落ちる種を蒔くからどうもならん」とも聞く。病気をしたり仕事や人間関係などでうまく行かなかったりした時、駄目な時ほど、とかく人は不平不満の種を蒔いてしまうもので、蒔いた種からはさらに不都合な芽が吹く。
落ち目になったときにこそ、辛いだろうけれども、その中から善き心遣い、善き行いという種蒔きをしておかないと、運命を好転させるような善き事が芽生えてきはしないのである。
春さきに蒔いた朝顔の棚が、やっといま、じりじりと窓に照りつける残暑の日ざしを和らげている。