第1336回2025年5月30日配信
待っていたで
人類の親のお立場である教祖が、常に子供の帰りを楽しみに待っておられる逸話が数多く残されている。
待っていたで
私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供の帰りを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。
文久元年、西田コトさんは、歯が痛むので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」ということを聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と温かく迎えられました。(教祖伝逸話篇8「一寸身上に」)
また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のために、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かなお言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠回りをして」)
どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびておられたかのようにして、迎え入れられています。
様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安な中、「待っていたで」と温かく迎えられた人々は、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。
親神様が人類の親であるなら、私たちの生活は、親神様による壮大な子育ての中にあるのではないでしょうか。親は常に子供の成人を待ち、大きく立派に育つことを願っています。
お言葉に、
たん/\と月日にち/\をもハくわ
をふくの人をまつばかりやで (十三 84)
この人をどふゆう事でまつならば
一れつわがこたすけたいから (十三 85)
とあります。
親神様が「待つ」ということの背景には、「一れつわがこたすけたい」とあるように、子供が少しでも陽気ぐらしに近づけるように導いてやりたい、との大いなる親心があるのです。子供の成長には時間がかかります。私たちも時間をかけてじっくりと、親神様の思いに沿う、たすけ合いの心を培いたいものです。
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