第1331回2025年4月25日配信
三才心
素直で純粋な心を失わないこと。教祖は、数々のお言葉や逸話で「さんさい心」の大切さを示されている。
三才心
母親が見守る前で、幼子たちが戯れる姿は、純真無垢そのものです。きょうだい同士、たとえ掴みあいのけんかをしても、すぐにケロッと忘れて再び遊び戯れ、母親に笑顔を向けています。何ともうるわしい、無邪気な姿です。
天理教では、「さんさい心」という表現で、素直で純粋な心の大切さを教えられています。
お言葉に、
「この道の中はこうなってもどうなっても、これ三才の子供という心になってくれにゃならん」(M36・12・22)
とあります。
また、体調の優れない六十代の男性へのお諭しに、
「めん/\はもう生まれ更わりたように成れ。すれば、さあ/\身上何も案じる事要らん。(中略)さあ/\心は今日生まれた人の心に替えて了え。生まれ児には思わく無い」(M40・1・16)
とあり、生まれたばかりの純粋な心になるよう促されています。
また、教祖をめぐって、こんな逸話も残されています。
明治九年頃のこと。年のころ五、六歳の林芳松という少年が、右手を脱臼してしまい、祖母に連れられて教祖のいらっしゃるお屋敷を訪ねました。
教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と仰り、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、「その茶碗を持って来ておくれ」と仰せになりました。
芳松少年が、右手が痛いので左手で持とうとすると、教祖は、「ぼん、こちら、こちら」と、ご自身の右手をお上げになり、痛めている右手で持つよう促されました。
威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛むはずの右手で茶碗を持とうとしたところ、不思議に持つことができました。芳松少年の素直な心を神様は見定められ、脱臼をしていた右手に結構なご守護を下されたのです。(教祖伝逸話篇49「素直な心」)
人は年とともに経験を積み成熟していきますが、その引き換えに純真な心を失い、ややもすれば神様の思いから離れてしまうことがあります。「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と、いくつになっても教祖から声を掛けて頂けるような、そんな「さんさい心」を持って通り切りたいものです。
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