第1343回2025年7月18日配信
松村吉太郎さん
若い頃、教祖のお言葉を承り、高慢のさんげをした松村吉太郎さん。後年このように語っている。
松村吉太郎さん
人は、何ごとも自分の勝手になるものと思い、とかく自分ひとりの苦楽や利害にとらわれがちになります。このような自己中心的な心遣いは、本人にとっては都合がいいかもしれませんが、まわりの人々や世の中にとっての迷惑、苦悩の原因となります。
人間は、きょうだいのように仲良くたすけ合って暮らすのが本来の姿ですから、私たちお互いは、自己中心的な心遣いを慎まなくてはなりません。
明治十九年の夏のことです。
当時ハタチの青年、松村吉太郎さんは、大阪の村役場へつとめながら、教祖のいらっしゃるお屋敷へ熱心に帰らせていただいていました。
ところが、若くて多少学問の素養もある吉太郎さんには、お屋敷へ寄り集う人々の教養のなさや、粗野な振る舞いなどが異様に映り、軽侮の念すら抱いていました。
ある日、吉太郎さんが教祖にお目通りすると、教祖は、「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」と仰せになりました。
教祖からこのお言葉を承って、吉太郎さんは心の底から高慢のさんげをしました。そしてその生涯を、信仰の道一筋に歩んでいったのです。
後年、吉太郎さんは、「神様は身の内にある」と題して、このようなお話をしています。
「かりものの理とは、私ども人間の体は私どもがつくったものでもなければ、また、私どもの心のままに自由になるものでもありませぬ。すでに我がものでないとしますれば、だれのものでありましょう。すなわち、神様のものでありまして、神様はこの体を、ただしばらく、私ども人間にお貸し下されたのであります。
われわれのすること、思うことで、神様がお知りなさらぬことは一つもありません。どんな小さい心づかいでも、みな神様に響かぬということはないのです。
しかして、人間の心は肉体と同じく、初め神様から賦け与えられしものでありまするが、心だけは自由を付けて下さってあるがために、その心だけは借りものの肉体と異にして、心そのものが、すなわち自分ということになっているのでござります。
ゆえにわれわれは、自分の心をいずれのほうにでも自由に立て替え、どんな良いことでも悪いことでもすることができるので、そこでその心づかいがむずかしいのであります。
人間というものは、自分さえ都合よければよい、他人はどんなに困っていてもかまわぬなど、自分勝手の了見をのみ、出すことになりますが、これすなわち、ほしい、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、八つのほこりによるのであります。
八つのほこりと本来の誠とは、あたかも仇敵のごとく、八つのほこりがはびこれば、本来の誠は光をくらまし、本来の誠が強ければ、八つのほこりは自ら治まるというありさまにて、詮ずるところ、八つのほこりさえ起こらなければ、罪悪禍害の生ずる原因はないのであります。」
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