第1213回2022年1月14日・15日放送
生かされて生きている
私たちは神様のご守護によって「生かされて生きている」。この本質的なあり方を自覚する人は少ない。
生かされて生きている
現代社会において、私たち人間は、ややもすると、ものの豊かさを求めるあまり、いまここに元気に生きていることの有り難さを忘れてしまいがちです。目先の事柄に心をとらわれて、自らの本質的なあり方を見失っているのです。
そうした心のあり方を、天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、次のように仰せくだされています。
このよふハにぎハしくらしいるけれど
もとをしりたるものハないので(「おふでさき」三 92)
にんけんの心とゆうハあざのふて
みへたる事をばかりゆうなり(三 115)
人間の心は「あざない」、浅はかなので、目に見えてくることばかりを求めている。皆、ものに恵まれた「賑わしい暮らし」をしているが、人間の「もと」、本質的なあり方を知っているものはいない。そうお諭しくだされています。
自分の力で動かそうとしなくても、心臓は絶えず動き、体温はうまく調節されています。身体のこのような微妙な働きは、ふだん元気な時は気にも留めませんが、それは自覚できないほどの精妙さでコントロールされているが故なのです。
にんけんハみな/\神のかしものや
神のぢうよふこれをしらんか (三 126)
私たち人間は、神様から身体をお借りし、自由自在の守護によって生かされて生きている。これが天理教の基本的な人間観です。この「生かされて生きている」ということが、人間の「あざない」浅はかな心にはなかなか映らない。心が曇っていると、心に映る世界も曇ってしまうからです。
人生において、本来の澄んだ心を取り戻すための糸口になるのは、常識や合理的思考によっては、どうしても対処できないような困難に出合い、行き詰まった時です。それは重い病気であったり、これを天理教では身上と言います、あるいは生活の上に現れる深刻な悩みや苦しみ、これを事情と言いますが、そういうものが起きた時ではないでしょうか。
この道の信仰においては、「身上事情は道の華」と言われます。自分にとって好ましくない事が起こった時、それを喜んで受け入れるのは、実に難しいことです。しかし、身の回りに成ってくることのすべては、私たち人間をたすけたいという神様の手引きであると教えて頂きます。
このよふにやまいとゆうてないほどに
みのうちさハりみなしやんせよ (二 23)
にち/\にみにさハりつくとくしんせ
心ちがいを神がしらする (四 42)
世に言う「病気」も、決して病気などではなく、それは、神様が私たちの心得違いをお知らせくださる「陽気ぐらし」へのメッセージなのです。
こうした神様からのメッセージの意味が心の底から理解できた時、私たちは自分の知恵や力で生きているのではなく、神様のご守護によって「生かされて生きている」という、人間の本質的なあり方を実感することができるのです。
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