第1197回2022年9月24日・25日放送
蔭膳を据える真実の心
真実の心や行いは、必ず教祖がお受け取りくださる。教祖が拘留された時の、ある信者の真実の行い。
蔭膳を据える真実の心
学生の頃、たとえば運動会や文化祭などで、なぜか自分への声援だけがよく聞こえてきた、というような経験はないでしょうか。喧噪の中でも必要な声が聞こえるのは、人間の認識がいつも取捨選択されているからだそうです。すべての音が耳に入っても、必要としている情報が無意識のうちに選択され、当人の求める声だけが届いてくるのです。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」の、次のような逸話が残されています。
明治の初め頃、教祖の教えは世間に誤解されることが多く、警察からも度々取調べを受けることがありました。
明治十五年、教祖は奈良監獄署へ十二日間拘留されました。その間、梅谷四郎兵衛さんは、お屋敷から監獄署までの十二キロほどの道のりを、毎日差し入れに通いました。
十二日間の拘留を終えて、元気にお屋敷へ戻られた教祖。四郎兵衛さんをお呼びになり、こう仰せられました。
「四郎兵衛さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで」
四郎兵衛さんは不思議に思いました。実は、毎日差し入れを届けてはいたものの、教祖には直に一度もお目にかかることができなかったのです。その上、誰も自分の差し入れのことを申し上げているはずはなく、どうにも合点がいきません。
ところが、そのころ大阪にある四郎兵衛さんの実家では、妻のタネさんが、教祖の御苦労をしのんで、毎日、蔭膳を据えてお給仕をしていたのです。(教祖伝逸話篇106「蔭膳」)
この時、教祖に届いていたのは、蔭膳を据えるタネさんの真実の心でした。これ以外にも、教祖が人々の「真心の御供」を大変喜ばれたという逸話がいくつも残されています。反対に、同じ御供でも「少しぐらいくれてやるか」と、高慢心で持ってきたようなものがあると、たとえそれを召し上がっても、
「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない」(教祖伝逸話篇7「真心の御供」)
と仰せられることもありました。
教祖が受け取られる声は、いつでも人の真心であり、真実の行いなのです。