(天理教の時間)
次回の
更新予定

第1276回2024年4月5日配信

人生最大のラッキー

目黒和加子先生
目黒 和加子

文:目黒 和加子

第1195回

一寸のほこり

人間は誰しも心にほこりを積んでしまう。それを認めることが、神様と真剣に向き合う第一歩である。

一寸のほこり

 

キリスト教が、人間は皆罪人である、という根本認識の上に成り立っているとすれば、天理教は、すべての人間は心に「ほこり」を積んでいるという認識から出発していると言えるでしょう。

ほこりとは、私たち人間の良くない心遣いとして、神様が戒めておられるものですが、この点について、教祖中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」に、

  一れつにあしきとゆうてないけれど
  一寸のほこりがついたゆへなり(一 53)

と示されています。

要するに、人間にはどうにもならない根本悪のようなものはないが、ちょっとのほこりはある、ということです。しかし、この「一寸のほこり」を認めることが大切で、人間はほこりを積んでしまう存在である、という前提から出発しなければ、決して陽気ぐらしへの道は開かれないのです。

朝夕のおつとめのお歌に、「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」とあります。冒頭、「あしきをはらうて」と声に出して唱えながら、手振りにおいては、胸の前で合掌し、そこから手首を返して胸を払う動作をします。ここから、「悪しき」とは外にあるものではなく、あくまで各自の心の中にあり、ほこりと同様のものと思案できます。このように、心にほこりがあると自覚できて初めて、「たすけたまえ」と、真剣に神様に願う姿勢が出てくるわけです。

しかし、なぜ私たちは自分自身の心が理解できないのでしょうか。私たち人間の目は外向きにつけられているので、形ある物を見るには大変便利にできています。ところが、自分の心の中を見るには甚だ心許ないもので、その場合は別の目、いわゆる「心眼」ともいうべきものが必要になります。

自分の部屋に埃がいっぱい渦巻いていても、肉眼では見分けることはできません。そこへ窓を開けて太陽の光を入れると、今まできれいだと思っていた部屋が埃だらけであることに気づき、よくもまあ平気でこんな所にいられたものだ、となります。この場合の太陽の光に相当するのが、神様の教えであり、その光によって私たちは、心遣いを正していくことができるのです。

教えを聞き、ほこりが自分の中にあることを悟った人は、たとえ不都合なことが起こっても、もはやその責任を外に押しつけることはできないでしょう。

おつとめのお歌に、

  なんぎするのもこゝろから
  わがみうらみであるほどに(十下り目 7)

とあります。

難儀するようなことが起こってきても、皆それぞれの心遣いから成ってきたことであり、各自がそれまでの通り方をよくよく反省するようにとお諭しくだされています。

天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に

おすすめのおはなし