(天理教の時間)
次回の
更新予定

第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1152回

神の心にもたれつけ

神の心にもたれ切れば、何不自由なく守護すると教えられる。「もたれる」ことについて、逸話をもとに考える。

神の心にもたれつけ

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、

  ふじゆうなきようにしてやらう
  かみのこゝろにもたれつけ(「みかぐらうた」九下り目 2)

とあります。

もたれるとは、そのままを100%信頼することを意味します。神の心にもたれ切れば、何不自由なく守護する、と教えられます。それは、具体的にどういうことなのでしょうか。思案するうえで、教祖の逸話をひもといてみましょう。

 

明治九年頃のこと。年のころ五、六歳の林芳松という少年が、右手を脱臼してしまい、おばあさんに連れられて、教祖のいらっしゃるお屋敷を訪ねました。

教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と仰り、入り口のところに置いてある湯呑み茶碗を指して、「その茶碗を持って来ておくれ」と仰せになりました。

右手を痛めている芳松少年が、左手で持とうとすると、教祖は、「ぼん、こちらこちら」と、ご自身の右手をお上げになり、痛めている右手で持つよう促されました。

威厳のある教祖のお声に、芳松少年は、子ども心の素直さから、痛む右手で茶碗を持とうとしたところ、不思議なことに持てたのです。

芳松少年の素直な心を見定められた神様によって、脱臼をしていた右手は、いつしかご守護をいただいていたのです。(教祖伝逸話篇49 「素直な心」)

 

難儀不自由している中であっても、できる、できないと考える前に、とにかく親の声に素直に応えてみることの大切さを、この逸話は教えてくださいます。

私たちは、ややもすると知識や経験が増えていくにつれて、人間思案が先に立ち、子どものような素直さを失ってしまいがちです。しかし、大人の分別にこだわってばかりいては、神様の思いにもたれ切ることはできません。信心の道とは、取りも直さず、この「素直な心」を取り戻していく営みと言えるのではないでしょうか。

天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に

おすすめのおはなし