第1152回2021年11月13日・14日放送
神の心にもたれつけ
神の心にもたれ切れば、何不自由なく守護すると教えられる。「もたれる」ことについて、逸話をもとに考える。
神の心にもたれつけ
天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、
ふじゆうなきようにしてやらう
かみのこゝろにもたれつけ(「みかぐらうた」九下り目 2)
とあります。
もたれるとは、そのままを100%信頼することを意味します。神の心にもたれ切れば、何不自由なく守護する、と教えられます。それは、具体的にどういうことなのでしょうか。思案するうえで、教祖の逸話をひもといてみましょう。
明治九年頃のこと。年のころ五、六歳の林芳松という少年が、右手を脱臼してしまい、おばあさんに連れられて、教祖のいらっしゃるお屋敷を訪ねました。
教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と仰り、入り口のところに置いてある湯呑み茶碗を指して、「その茶碗を持って来ておくれ」と仰せになりました。
右手を痛めている芳松少年が、左手で持とうとすると、教祖は、「ぼん、こちらこちら」と、ご自身の右手をお上げになり、痛めている右手で持つよう促されました。
威厳のある教祖のお声に、芳松少年は、子ども心の素直さから、痛む右手で茶碗を持とうとしたところ、不思議なことに持てたのです。
芳松少年の素直な心を見定められた神様によって、脱臼をしていた右手は、いつしかご守護をいただいていたのです。(教祖伝逸話篇49 「素直な心」)
難儀不自由している中であっても、できる、できないと考える前に、とにかく親の声に素直に応えてみることの大切さを、この逸話は教えてくださいます。
私たちは、ややもすると知識や経験が増えていくにつれて、人間思案が先に立ち、子どものような素直さを失ってしまいがちです。しかし、大人の分別にこだわってばかりいては、神様の思いにもたれ切ることはできません。信心の道とは、取りも直さず、この「素直な心」を取り戻していく営みと言えるのではないでしょうか。