(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1115回

幸せと、少しの不幸せ

同じ食事を出されても、喜んで食べる人もいれば、不満を口にする人も。果たしてどちらが幸せだろうか。

幸せと、少しの不幸せ

 

天理教の教会に相談にやって来る人は、それぞれが何らかの悩みごとや心配事を抱えています。当然「私は十分幸せです」という人よりも、「あまり幸せではありません」と感じている人のほうが多いでしょう。

しかし、その悩みの度合いは人それぞれで、傍から見て大した問題ではなさそうなのに、これ以上の苦しみはないと訴える人がいるかと思えば、その一方で、誰が見てもこれ以上のつらい状況はないだろうと思われるのに、けっこう気にせずに暮らしている方もおられます。この違いはどこから来るのでしょうか。

ある日の夕食の席。メニューは全員同じです。ぜいたくとは言えない、ごく普通のおかずが並んでいます。

ニコニコと嬉しそうに食べているAさんに、隣りにいたBさんが、「おいしいですか?」と尋ねました。Aさんが「はい、おいしいです」と答えると、Bさんは「あなたはいいですねえ。私は常日ごろの習慣から、お酒とお刺身がないと夕食を食べた気にならないんですよ」と、やや不満そうに言いました。

さて、AさんとBさんでは、果たしてどちらが幸せでしょうか。Aさんは普段ほとんど晩酌をしませんし、お刺身などめったに食べません。はた目には、お刺身を肴に毎日お酒を飲んでいるBさんのほうが幸せそうに見えます。しかし、幸せを喜びの量で測るとすると、同じものを出されて「おいしい」と喜んでいるAさんと、「お酒もお刺身もない」と不満を口にしているBさんとどちらが幸せなのか。考えてしまいますね。

しかし、そんな贅沢とは無縁なAさんでも、次の日から毎日お酒とお刺身を出されたらどうなるか。しばらくは幸せだなと感じるでしょうが、あっという間にそれは当たり前になってしまいます。そして、それが当たり前になったら、次はそれ以上のものが欲しくなるのです。

「幸せ」は、それ単独では存在できません。「少しの不幸せ」という下敷きの上に乗っています。理由は簡単です。「幸せ」はしばらくすると「当たり前」に変化するからです。お酒とお刺身を「幸せ」と感じるためには、それを食べられない「ちょっと不幸せ」という下敷きが必要なのです。

幸せを下敷きにしている人は、良かった頃の思い出や、幸せそうな人の姿が基準になりますから、自分の少しの不幸せばかりに目が行ってしまい、口から出る言葉は不平不満ばかりになります。視点を変えて少しの不幸せを下敷きにすると、満たされている部分だけが見えてきて、幸せを味わうことができるようになるのです。

さらに言えば、少しの不幸せの代わりに下敷きになるものがあります。それは「感謝」です。物への感謝、そして、そのすべてをお与えくだされている「神様への感謝」です。当たり前を決して当たり前にしない魔法が、この感謝なのです。

幸せは絶対的な条件が決まっているものではありませんし、その総量が決まっているものでもありません。その時その時の自分の心が、幸せの中身とその量を決めています。

天理教では、この幸せのことを「陽気ぐらし」と呼んでいます。陽気ぐらしは、はるか彼方にあるのではありません。心一つの持ち方で、誰にでも、今すぐにでも味わうことができる、と教えられています。

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