(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1096回

善い事すれば善い理が回る

神様の仰る「善」とは、人をたすける心を軸としたものの考え方を指す。たとえ損をしたように見えても…。

善い事すれば善い理が回る

人間の善意とは、社会でどの程度通用するのでしょうか。いくら善いことをしても何の得にもならない、どうせ正直者がバカを見るんだから、と人の善意に対して半ばあきらめてしまうような経験のある人も多いことでしょう。確かに、私たちの住む社会には、我も我もと目先の損得を追い求める側面があるのも事実です。

そうした私たち人間の傾向を重々ご承知の神様は、このようなお言葉を残されています。

「善い事すれば善い理が回る、悪しきは悪しきの理が回る。善い事も切りが無けねば、悪しき事も切りが無い」(「おさしづ」M25・1・13)

神様の言われる「ことの善し悪し」とは、「人をたすける心」を軸としたものの考え方や行動を指します。それは道徳的基準を超えたところにある、自分本位の考えを捨て、どこまでも人に尽くしていく心のあり方です。

ところが、「善い事すれば善い理が回る」という天の法則に気付かない私たちは、人のためにと善い行いをしても、誰も褒めてくれる訳でもなし、お金が儲かる訳でもなし、そんなことは無駄ではないかと思ってしまいがちです。ならば、少しぐらい人に迷惑をかけても、自分の利益を追求していく方が得策ではないか。

しかし、「善い事も切りが無けねば、悪しき事も切りが無い」というのが落とし穴で、人間はいったん善悪のバランスが崩れしまうと、悪い方向へ際限なく向かってしまう可能性があるのです。

神様は、

「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く」(「おさしづ」M25・1・13)

とも仰せられます。つまりは、私たちの善い行いも悪い行いも、すべて神様はご存知で、きっちりと「天の帳面」に記録されているのです。そして、善も悪も、その記録の勘定通りに、私たちの目の前に現実として起こってくるわけです。

周りの人や神様のご守護のおかげで生かされている、と感謝の念が湧いてくる時は、心や身体が自然に善意の方向へと傾くでしょう。
そんな時には「善い事すれば善い理が回る」ということが、自然に理解できるのです。しかし、心の中が不平や不満でいっぱいの時には、たとえ目の前で善い事が起きても、気づかずに見過ごしてしまう場合が多いのです。

善きことを求めるなら、善きことを。それには、人をたすける優しい心づかいを積み重ね、神様にお喜びいただくのが最良の方法なのです。

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