第1272回2024年3月8日配信
待っていたで
親の立場である教祖は、常に子供がやって来るのを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多くある。
待っていたで
私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供がやって来るのを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。
文久元年、西田コトさんは、歯が痛いので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」と聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と、コトさんを優しく迎えられました。(教祖伝逸話篇8「一寸身上に」)
また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のため、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かな言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠廻りをして」)
どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびていたかのようにして、迎え入れられています。
様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安の中、「待っていたで」との教祖のひと言に、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。
親神様が私たち人類の親であるなら、私たちの日常生活は、親神様による壮大な子育ての中にあると言えるのではないでしょうか。そうして日夜温かく見守られる中で、親神様は私たち子供の成人を待ちわび、大きく立派に育つことを願っておられます。
待つということの中には、期待や楽しみも含まれているのでしょう。何せ、子供の成長には時間がかかります。時間をかけてじっくりと、そして楽しみながらその成長を待つ、これこそ真実の親の姿です。
お言葉に、
たん/\と月日にち/\をもハくわ
をふくの人をまつばかりやで (「おふでさき」十三 84)
この人をどふゆう事でまつならば
一れつわがこたすけたいから (「おふでさき」十三 85)
親神様がなぜそれほどまでに「待つ」ことができるのか。そこにあるのは、どうでも「一れつわが子たすけたい」という切ないばかりの親心に他ならないのです。
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