第1269回2024年2月16日配信
天理教の身体観
「かしもの・かりもの」の教えは、壮大な世界観で説かれていると同時に、私たちの暮らしに身近な教えである。
天理教の身体観
天理教では、私たちの身体における神様のお働きについて、「かしもの・かりもの」という教えの中で説かれています。お言葉に、次のようにあります。
「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る」(「おさしづ」M22・2・14)
多くの人が、自分のものとして疑わない身体が、実は神様からのかりもので、自分のものは心だけであると仰せられます。
この、かしもの・かりものの教えの前提となるのが、
たん/\となに事にてもこのよふわ
神のからだやしやんしてみよ(「おふでさき」三40・135)
とあるように、この世界は神様の身体である、という教えです。
かしもの・かりものの教えを心に治めるには、この世界において、人間のものと言えるものは何一つなく、すべては神様からのお与えであること。そして、そもそも、この世界は誰によって造られたのか、という順序を分かっていなければなりません。
お言葉に、
「さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」(「おさしづ」M20・1・13)
とあります。
この広大な宇宙は、月日親神様によって造られた。そして、地球という惑星において人間を創造され、その人間たちが次第に集団を作り、やがて国となった。それぞれの国では、そこに住む人々が守るべき法律を作り、その法律に従って暮らしている。現在の人々の暮らしがあるのも、すべては親神様の元初りのお働きがあってのことである。このような厳然たる順序を教えられています。
そして、宇宙全体が神様の身体であり、すべてが神様のご守護であるなら、その小さな一部である人間個々の身体もまた、この世界を動かすのと同様の理合いによって、結構に使わせて頂いているというわけです。
このように「かしもの・かりもの」の教えは、壮大な世界観の上に説かれていると同時に、私たちの日々の暮らしとは切っても切れない、身近な教えなのです。
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