第1165回2022年2月12日・13日放送
陽気づくめ
「陽気づくめ」とは、常に陽気で、すべてが陽気な信仰である。実際は、喜べない日もあるのが現実だが…。
陽気づくめ
天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、
いつまでしんゞんしたとても
やうきづくめであるほどに(五下り目 5)
とあります。
陽気づくめの「づくめ」とは、そのことばかりであることを意味します。例えば、「黒づくめの衣装」といえば、衣装が黒ばかりであることを指します。したがって、このお歌は、私たちがいつまで信心したとしても、「常に陽気であり、すべて陽気である」というように、どこまでも明るく勇んだ道すがらを歌ってくださっているように思います。
しかし、実際にそんなことが可能でしょうか。喜べない日も、勇めないこともあるのではないでしょうか。
教祖直筆による「おふでさき」に、
月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから(十四 25)
とあるように、神様は私たち人間が陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しみたいと思召され、この世界と人間をお造りくださいました。
私たちの身体をはじめ、この世の一切のものは、陽気ぐらしのために神様が用意してくださったものです。ですから、この「陽気づくめ」であるはずの世界に、陽気でないものがあるとすれば、それは唯一自由に使うことを許されている、私たち自身の「心」ということになるでしょう。
たとえて言うなら、親が子どもを喜ばせようと、子どもの好きな料理を作り、プレゼントまで買って誕生日会を用意したのに、肝心の子どもが学校で嫌なことがあって機嫌を損ねて帰ってきたら、せっかくの誕生日会も楽しめずに終わってしまうようなものです。
「陽気な心」を意識して通られた先人の一人に、深谷源次郎さんがいます。鍛冶屋を営んでいた源次郎さんは、もともと陽気な性格でしたが、信心の道に入ってからは、ますますどんなことも明るく悟るようになり、陽気づくめの道を通られました。
たとえば、つまずいて額を打ってこぶができた時には、「痛い!」と言った次の瞬間に、「有難や、有難や」と大声で叫んだそうです。頭を打って何がありがたいのかと周りの者が尋ねると、「痛いということを感じさせてもらえるのが有難いのや」と答えたといいます。
晩年は左目の視力が衰え、日が経つにつれて右目も衰えていきました。そんな中、源次郎さんは、「神様のご守護て偉いもんやないか。鍛冶屋していた時に怪我した方が後から悪くなってきたで」と、実に明るく悟っています。
源次郎さんは、かつて鍛冶屋をしていた時に、作業中に真っ赤に焼けた鉄くずが右目に入り、失明しそうになったところを、不思議なおたすけをいただいて信仰に目覚めたのです。その自らの信仰の元一日を振り返り、失明しそうになった右目からではなく、左目から悪くなってきたことを、神様のご守護だと喜んで、人々に陽気に話しているのです。
「陽気づくめ」というのは、どんな困難な中も、神様の親心を陽気に悟っていく歩みの中に、味わえる境地ではないでしょうか。