(天理教の時間)
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第1406回2026年10月2日配信

9年目のランドセル

yamasaki
山﨑 石根

文:山﨑 石根

第1319回

狭いのが楽しみ

「楽しみ」あふれる人生を、と誰しも思うが、教祖の教えられる「楽しみ」と私たちが思うそれは同じだろうか。

狭いのが楽しみ

 

「楽しむ」というのは、人間の中に本来備わっている大きな資質の一つであり、楽しむことがなければ、私たちは生きていくことができません。それは、親神様が「人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい」との思惑から、私たち人間をお創りくだされたからに他なりません。

生活が豊かになること、だんだんと不自由なことがなくなること、心が豊かになること、誰しもこのような「楽しみ」あふれる人生を送りたいと思うはずです。

では、教祖が教えられる「楽しみ」とは、どのようなものでしょうか。

京都で熱心に信仰をしていた深谷源次郎さんが、なんでもどうでもこの結構な教えを弘めさせて頂こうと、勇んでにをいがけ・おたすけに歩いていた頃のお話しです。

当時、源次郎さんが、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、という中、心を倒さずにお屋敷へ足を運んでいると、教祖はいつも、このように仰せ下さいました。

「狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから理が積もって大きいなるのや。松の木でも、小さい時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで」(教祖伝逸話篇142「狭いのが楽しみ」)

ここで言われている「楽しみ」は、自分自身の生活が良くなるというような、世俗的な楽しみとは違うようです。

小さいものは、理が積み重なって大きくなること。これこそ天然自然の理であり、親神様の大きなご守護の賜物であること。そして、今は小さくとも、先々この教えがどのように広まっていくのか、それを楽しみに日々を勇んで通って欲しい。教祖はそう望んでおられるのです。

「紋型無い処から、今日の道という。嘘はあろうまい。農家の立毛作るも同じ事、何ぼの楽しみとも分からん」(M32・2・2)

天保九年、教祖お一人からこの道は始まりました。小さいどころか、形さえ見えなかった松の木が、やがて大きな芽を吹き、日本全国、そして海外までも広がりを見せていったのです。

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