第1319回2025年1月31日配信
狭いのが楽しみ
「楽しみ」あふれる人生を、と誰しも思うが、教祖の教えられる「楽しみ」と私たちが思うそれは同じだろうか。
狭いのが楽しみ
「楽しむ」というのは、人間の中に本来備わっている大きな資質の一つであり、楽しむことがなければ、私たちは生きていくことができません。それは、親神様が「人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい」との思惑から、私たち人間をお創りくだされたからに他なりません。
生活が豊かになること、だんだんと不自由なことがなくなること、心が豊かになること、誰しもこのような「楽しみ」あふれる人生を送りたいと思うはずです。
では、教祖が教えられる「楽しみ」とは、どのようなものでしょうか。
京都で熱心に信仰をしていた深谷源次郎さんが、なんでもどうでもこの結構な教えを弘めさせて頂こうと、勇んでにをいがけ・おたすけに歩いていた頃のお話しです。
当時、源次郎さんが、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、という中、心を倒さずにお屋敷へ足を運んでいると、教祖はいつも、このように仰せ下さいました。
「狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから理が積もって大きいなるのや。松の木でも、小さい時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで」(教祖伝逸話篇142「狭いのが楽しみ」)
ここで言われている「楽しみ」は、自分自身の生活が良くなるというような、世俗的な楽しみとは違うようです。
小さいものは、理が積み重なって大きくなること。これこそ天然自然の理であり、親神様の大きなご守護の賜物であること。そして、今は小さくとも、先々この教えがどのように広まっていくのか、それを楽しみに日々を勇んで通って欲しい。教祖はそう望んでおられるのです。
「紋型無い処から、今日の道という。嘘はあろうまい。農家の立毛作るも同じ事、何ぼの楽しみとも分からん」(M32・2・2)
天保九年、教祖お一人からこの道は始まりました。小さいどころか、形さえ見えなかった松の木が、やがて大きな芽を吹き、日本全国、そして海外までも広がりを見せていったのです。
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