第1251回2023年10月13日配信
にくい・かわいのほこり
ややこしい対人関係の中で生きている私たち。「にくい」「かわい」のほこりについて考える。
にくい・かわいのほこり
人は生まれてから死ぬまで、ややこしい対人関係の網の目の中で生きるよう宿命づけられているようです。対人関係には利害がつきまとうものですが、もっとも広く私たちの心に横たわっているのは、好き嫌いの感情です。これが深刻な状態になり、憎悪や怒りが生じてくると、世界いちれつきょうだいであるどころか、「万人は万人にとっての敵」となり、それが自らや人々の心を果てしなく傷つけていきます。
神様は、陽気ぐらしに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくだされていますが、今回は特に対人関係において生じてくる「にくい」と「かわい」のほこりについて考えてみたいと思います。
「にくい」のほこりの場合、ある特定の人に対して憎いという感情しか持てないとすれば、それは自由であるはずの心の動きを極度に狭めていることになります。言い換えれば、憎いと思うその人に心を囚われ、支配されている状態です。これは自他ともに、実に不快で不自由な世界に住んでいる状態だと言わねばなりません。
また、「かわい」のほこりとは、自分や身内の者だけを偏愛する傾向のことを指します。我が子を可愛がるのは親として当然のことですが、我が子だけを偏愛し、人の子のことなどどうでも良いとなれば、これはいちれつきょうだいの教えに反する心遣いです。
困ったことに、これらの感情は、主として密接な関係において生じてきます。私たちは見も知らぬ人を憎むことはありませんし、よその会社の人の出世に腹を立てることもないのです。ところが、ちょっとした悪口でも、夫婦の間では我慢ができず、同じ職場にいる人間に陰口を叩かれたとなれば、すぐにほこりを積んでしまうでしょう。
かくして、本来互いにたすけ合って陽気ぐらしをするように組み合わされた密接な人間関係が、バラバラに壊されていき、相互に人間不信の念が深まっていきます。ここで考えるべきは、武器や道具で暴力に訴えるのが悪であることは誰でも承知していますが、言葉によって、あるいは心遣いによっても、人を憎み、深く傷つけてしまうことがあるということです。
それらは、法律的、社会的に罰せられることはないかもしれません。しかし、お言葉に、
みなせかいのむねのうち
かゞみのごとくにうつるなり
(「みかぐらうた」 六下り目 三ッ)
とあるように、私たち一人ひとりの心の動きは、神様の目にすべて鏡のように映り、その心通りにご守護くださることを忘れてはなりません。
すなわち、ほこりを払うということは、神様の教えに照らし合わせて、日々の言動を心掛けることであり、それは社会的な評価の善悪とはまったく別のものなのです。
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