(天理教の時間)
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第1406回2026年10月2日配信

9年目のランドセル

yamasaki
山﨑 石根

文:山﨑 石根

第1234回

御苦労さま

誰に対しても、少しもへだて心がない教祖。物もらいにまで「御苦労さま」と声を掛けられる。なぜか。

御苦労さま

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、次のような逸話が残されています。

 

「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。

どんな偉い人が来ても、

『御苦労さま。』

物もらいが来ても、

『御苦労さま。』

その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。

皆、可愛い我が子と思うておいでになる。それで、どんな人でも皆、一度、教祖にお会いさせてもらうと、教祖の親心に打たれて、一遍に心を入れ替えた。教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。

例えば、取調べに来た警官でも、あるいは又、地方のゴロツキまでも、皆、信仰に入っている。それも、一度で入信し、又は改心している。」

と。これは、高井直吉の懐旧談である。(教祖伝逸話篇195「御苦労さま」)

 

教祖はこの様に、どんな立場の人も一切の隔てなく、同じように声を掛け、温かく迎えられました。

普通、「御苦労さま」とは、仕事をしている人、心や体を使って相手のために何かをしている人に掛ける言葉です。しかし、物もらいは、物を恵んで欲しいと来ているわけで、何もしていないどころか、相手に迷惑をかけようとしている人です。その人にまで、「御苦労さま」と声をお掛けになる。なぜでしょうか。

考えてみれば、好きで物もらいになっている人などいません。もしかしたら、身体が弱くて働けないのかもしれない。うちに帰れば病気で寝ている家族がいるのかもしれない。何か人にはわからない事情があるに違いないのです。

教祖の私たちを慈しむ思いには、何の条件もありません。そこにあるのは、何を成すわけでなくとも、ただいてくれるだけで存在自体が愛おしくてたまらない。そんな一途な親の思いなのです。

この「御苦労さま」というお言葉を噛みしめる時、私たちが考えるべきは、人と人を比較しない、差別をしないということではないでしょうか。お互いは、いちれつきょうだいであるとの思いを胸に、周りの一人ひとりの存在をありのまま認めていく。決して自分の好き嫌いだけで、その人を判断してはなりません。

教祖はいつでも、ありのままの私たちをご覧くだされています。「御苦労さま」とニコニコと微笑みながら。この果てしないご慈愛に気づいた時、私たちは何とも言えない安らぎを感じることができるのです。

 

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