第1204回2022年11月12日・13日放送
罪と罰
宗教上の重要なテーマである「罪と罰」。天理教ではどのように説かれているのだろうか。
罪と罰
宗教の重要なテーマの一つに、「罪と罰」ということがあります。端的に言えば、悪いことをした者は罰せられる、というのが罪と罰ですが、天理教の教えでは、この点が殊更に強調されることはありません。
よくない心遣いとして戒められる「ほこり」、それが積み重なって目の前の出来事として現れてくる「いんねん」という重要な教えがありますが、強いて言えば、これらが罪の要素を含むものと捉えることができます。
心のほこりは全ての人に存在していますが、これは純粋に精神の内容に関するものです。たとえば、「お酒を飲み過ぎてしまう」という行いを正すためには、その奥にある「お酒が欲しくてたまらない」という心の偏りを修正することが肝心で、これが「心のほこりを払う」という天理教の信仰的実践であり、それによって人は救済へと導かれるのです。
心のほこりについては、教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、
せかいぢうどこのものとハゆハんでな
心のほこりみにさハりつく(五 9)
とあるように、心のほこりは身の障り、すなわち病気となって表れてくると教えられます。
もし自分の身に不都合なことが起きた時に、それを神様から与えられた罰だと受け取れば、心のほこりは罪に相当します。しかし、神様は世界一れつの子どもをたすけたい一心であり、人間に罰を与えようという思いはありません。もし罰であるなら、私たちの信仰は、辛い目に遭わないように神様に祈るという、いわば恐怖心からの信仰ということになります。しかし、そのような祈りが陽気ぐらしに結びつくとは到底考えられません。
「死」は人間に与えられた最大の罰であるという考え方もありますが、天理教では死は「出直し」であり、魂は生き通しであると教えられるので、これもまた罰ではありません。
神様が私たちの人生に最終的な裁きを下すような教えは、ここには存在しません。心のほこりやいんねん、出直しと言われる「死」も、決して罪や罰などではなく、どれもが陽気ぐらしへのステップとなり得るものなのです。