第1187回2022年7月16日・17日放送
身上がもとや
命の尊さ、身体の大切さを教祖はお教えくださる。それは決して一般的な倫理にとどまるものではない。
身上がもとや
天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、ある時、こんなお諭しをされました。
「命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや。今、火事やと言うたら、出せるだけは出しもしようが、身上の焼けるのも構わず出す人は、ありゃせん。大水やと言うても、その通り。盗人が入っても、命が大事やから、惜しいと思う金でも、皆出してやりますやろ。
悩むところも、同じ事や。早く、二の切りを惜しまずに施しして、身上を救からにゃならん。それに、惜しい心が強いというは、ちょうど、焼け死ぬのもいとわず、金を出しているようなものや。惜しいと思う金銭・宝残りて、身を捨てる。これ、心通りやろ。そこで、二の切りを以て身の難救かったら、これが、大難小難という理やで。よう聞き分けよ」(教祖伝逸話篇 187「身上がもとや」)
これは、喜多治郎吉さんによって語り伝えられたお諭しです。
ここでは、私たちの身体のことを指す「身上」という言葉や、「命あっての物種」「金銭は二の切り」、二の切りとは、二番目に大切なものという意味ですが、そのような表現を使って、命の尊さという一般的な倫理が説かれているようにも見受けられます。しかし、教祖の教えは、そのような一般倫理にとどまるものではありません。
教祖直筆による「おふでさき」の、次の二首のおうたに、なぜ、私たちの身体や命が尊いものなのか、その大事な点が示されています。
たん/\となに事にてもこのよふわ
神のからだやしやんしてみよ(三 40)
にんけんハみな/\神のかしものや
なんとをもふてつこているやら(三 41)
この世界は「神のからだ」であり、私たち人間は神の懐住まいをさせて頂いている。そして、この世の一切のものは、神様からのかりものであり、その最たるものが人間の身体である。
なぜ、身体や命が大切なのか。そこに、与えられた身体を精いっぱい使って、「陽気ぐらしをするように」という、神様の深い親心が込められているからなのです。
この教祖のお諭しを後に語り継いだ喜多治郎吉さんは、背丈は六尺、180センチを超す堂々たる体格で、若い頃には相撲の修行に励んだり、柳生流の剣の極意を学んだこともありました。およそ60キロもある金平糖の入った桶を、両手にひとつずつさげて軽々と神殿へ運んだという逸話が残されています。
治郎吉さんのように、どれほど頑強な身体の持ち主でも、神様のご守護があってこそ存分に働かせて頂けるのであり、大切なのは、「かしもの・かりもの」の理をよく聞き分け、慎みの心で通ることである。そのようにお仕込みくだされているのです。