(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1132回

吉福家に春がきた

高校二年生の里子が「家を出たい、学校を辞めたい」と。会話も少なくなり、気持ちのすれ違いはあったが…。

吉福家に春がきた

岐阜県在住  吉福 多恵子

 

昨年9月、児童相談所から電話がありました。

「吉福さん、気を悪くしないで聞いてください。里子の実親さんから、『うちの娘が、里親宅でご飯を食べさせてもらっていないと言っているが、どうなっているのか』と問い合わせがありました。吉福さんのお宅のことはよく分かっていますし、そんなことは考えられないのですが、こういう申し出があると、児童相談所としては事実を確認する義務がありますので、申し訳ありませんがお電話させていただきました」

「そうなんですか。びっくりですね。どこからそんな話になったのでしょう。もちろんそんなことは絶対ありませんのでご安心ください」と、納得していただいて電話を切りました。

里親を長く続けていると、こうした思わぬ里子のジャブに合うこともあります。その時はあまり深くも考えなかったのですが、振り返れば、それが今回の騒動の始まりだったのかもしれません。

我が家の里子は高校二年生の女の子。青春真っ盛りです。やりたいことはいっぱいあるし、大人の入り口に差し掛かって色んなことに興味津々。親にしてみると、危なっかしくて心配でたまりません。

特に帰宅時間が遅い日は夜の10時、11時になったり、携帯電話の使い方には頭を悩ませました。注意すればするほど問題行動はエスカレートするばかりで、いつの間にか会話も必要なことを伝える以外ほとんどなくなってしまいました。

児童相談所や関係機関にも手伝ってもらい距離を埋めようとしましたが、なかなか思うようにいきません。実は、私は若いお母さん向けに子育ての講座を開いているのですが、さすがに家の中がこんなことでは講師の資格がないのではと、すっかり自信を失ってしまいました。

一方、その間にも彼女の不満はどんどん膨らんで、この家にはいたくない、どこか他へ移りたいということ、そして、仲の良かった友達とうまくいかなくなったので学校を辞めたい、という二つの問題を訴えてくるようになりました。

どうすればいいか悩みましたが、夫とも話し合い、私たちにとって良い道とは思えないことでも、自分でやってみなければ分からないのだから、彼女の意思を一旦受け入れてみようということになりました。

まずは住むところの問題です。わが家を出て、何にも縛られない一人暮らしに憧れるのはよく分かりますが、年齢からいっても思い通りにはなりません。保証人も必要だし、経済的なことも考えなければなりません。

児童相談所の方が、一人暮らしをすれば一体いくらかかるのかをシュミレーションし、図に書いて一目瞭然にしてくださいました。また、自立支援の施設へも見学に連れて行ってくださり、一人の人間が自由を得るのがどれだけ大変なことかを、本人も感じてくれたようでした。

もう一つ、学校の問題です。今の学校を辞めるとなると、高校卒業の資格を取るためには別の道を探さなければなりません。通信制の高校には、私も一緒に様子を見に行きました。

こうして多くの人たちが心を掛け、動いてくださったことが伝わったのでしょうか、今年の3月も尽きる頃、もう一年この家で頑張ってみること、そして学校は4月にクラス替えもあることだし、それに希望をつないで通い続けることを決意してくれました。

それを本人の口から聞くことができ、私は「長かったなあ。里子と私の200日戦争だった」と、ホッと息をつきました。ところが、親身になって相談に乗ってくださった方に報告したところ、「あぁ、吉福家に春がきた~」と喜んでくださったのです。ハッとしました。

よく、「問題のある子というのは、親に問題を出してくれる子だ」と言われます。里子のここが悪い、あんな生活態度だからうまくいかないんだと指摘するのは、それはそれで間違ってはいないかもしれません。しかし、「彼女の行動に対して、あなたは里親として何を思うのですか?」と、自ら問いかけることを忘れてしまっていたのではないかと反省しました。

天理教では、「世界は鏡」であると教えられます。目に映る様々な出来事は、良いにつけ悪いにつけ、自らの心を映し出している鏡のようなものであるという考え方です。

物事が調子よく進んでいる時はいいのですが、問題は自分にとって都合の悪いことや、腹立たしいことが起こった場合です。そんな時は、自分にもどこか非がなかったかと自らに矢印を向けて考え、気がついたことを改めていく。そうして心を澄ましていく中で、問題解決への光を見出すことができるのです。そもそも、今回の出来事を「戦争」に例えたこと自体、私の心にも非があったのです。

「吉福家に春がきた」

何と素敵な言葉でしょうか。嬉しい言葉をかけてくださり、心から感謝しています。

里子が決意を新たにしてくれた4月、周りを見渡せば、チューリップ、桜、菜の花、ボタンまで、春爛漫の景色が広がっています。私はあらためて「心の矢印を自分に向けることを習慣にする」と、誓いを立てました。

 



家族のハーモニー「正二さんの生きた証し
 「人間いきいき通信」2019年5月号より

白熊 繁一

正二さんは、九歳年上の私のいとこ。子供のときからやんちゃで、若いころは奈良県の自宅から東京のわが家まで、何日もかけて自転車で来たことがある。玄関に立つ正二さんの顔は、汗と排気ガスと長旅による日焼けで真っ黒だった。

その後もオートバイや真っ赤な自動車で不意に訪れるなど、正二さんにはいつも〝驚き〟が一緒についてきた。何の連絡もなく突然やって来ては、玄関先で大声で叫ぶので、私たち兄弟は、「嵐が来た!」と言って顔を見合わせた。辺り構わず「繁一!」と呼び、無理難題を言うので、滞在中はいつもハラハラしていた。

正二さんはメカに強く、私が青年期になると、何台かのポンコツバイクの部品を合体させて一台のバイクを作った。私が初めて入手した軽自動車も彼の〝作品〟だった。趣味の域を超えて、板金や塗装までこなす腕はプロ級だ。電気製品などの修理もお手のもので、どんな状態でも見事に復活させた。

その手際の良さに見とれていると、「人間は神様が造ったものやから治せんけど、機械は人間が作ったものやから、人間が直せるんや」と豪語した。その迫力に「なるほど」と頷いてしまった。

正二さんは、結婚して三人の子供を授かった。そして、母親が務めていた教会の会長を継いだが、間もなく離婚。幼い子供を引き取り、子育て生活に入った。東京にいる信者さん宅を回るために、赤ちゃんを抱いて私の家に来たり、子供たちが大きくなると、何日分もの食事を作り置きして、電話で食べ方を指示したりしていた。

厳しい父親と優しい母親の役を一人でこなす正二さん。彼の親心によって、三人の子供は真っすぐ育った。いまはそれぞれ家庭を持ち、孫が九人もいる。

私たち夫婦が里親を始めると、力強い応援団となってくれた。わが家へ来るたびに、お菓子や自作のおもちゃを持参して、子供たちを楽しませた。里子たちには、かつての「嵐」ではなく、心優しい〝足長おじさん〟だった。

数年前に重い病気を患った正二さんは、古くなった教会の移転普請をして、会長を長男に譲った。新築なった教会を訪ねると、病み上がりだというのにパワーショベルを操り、敷地の整理に汗を流していた。心配で休むように言うと、「寝ているより、動いていたほうが楽なんや」と、運転席から例の大声で答えた。

昨年末、とうとう病に伏せってしまった。彼を見舞い、しばらく雑談を交わした。私が帰ろうとすると、「寂しいから、もっといてくれ」と、いままで聞いたことのない弱音を漏らした。

そして間もなく、彼の長男から訃報が入った。あのか細い声でのやりとりが、最後の会話になってしまった。賑やかなことが大好きだった正二さんにふさわしく、子や孫たちに囲まれて、眠るように逝ったと聞いた。

告別式で、長男が「父は、私たち子供に何もしてやれなかったと言いました。でも、今日まで育ててくれた父に、何もしてあげられなかったのは私たちのほうです。部活に行くときは、必ず弁当を作ってくれました。あの甘い卵焼きの味が忘れられません」と言って、言葉を詰まらせた。斎場に、すすり泣く声が静かに響いた。優しく穏やかな子供たち、元気な孫たちの存在は、正二さんの生きた証しだ。

葬儀を終えて深夜、東京へ帰る電車のなかで「僕のほうが寂しいよ」と心のなかでつぶやいた。すると、いつも通りのにこやかな顔で「すまん、すまん」と言う正二さんの顔が、まぶたに浮かんだ。

(終)

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