(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1073回

さくらんぼ騒動記

庭にようやくなったさくらんぼの実を、鳥の群れにやられてしまった。そのとき、私の物への執着心があらわに。

さくらんぼ騒動記

岐阜県在住  吉福 多恵子

庭の片隅に、20年以上前に母が植えたさくらんぼの木があります。毎年枝ぶりも立派になっていき、ある年、とうとう木にいっぱいの実をつけました。  
それまでは、花が咲いたら綺麗だなあと思うぐらいで、あまり関心のなかった私でしたが、目の前の光景に気分はすっかり高揚しました。すぐさま夫と二人でさくらんぼ狩りと洒落込みました。  
手にしたボールは見る見るいっぱいになって、「これはいっぺんに取ってしまってはもったいない。あと半分は明日の楽しみにしましょう」と思い、その日は終了となりました。

さて翌朝、まだ寝床にいる私に「さくらんぼ、全部なくなってるよ」と夫が教えにきてくれました。
「えぇぇぇ~」
何があったんだろう? もう、びっくりです。
大急ぎで行ってみると、さくらんぼの木の周辺には、ひよどりやむくどり、カラスなどが数え切れないぐらい飛び交っています。
「やられた~!」
「昨日全部取っていれば、こんな気持ちにならずに済んだのに。どうしてそうしなかったんだろう」。
もう、悔しくて悔しくて、二日間ほど立ち直れませんでした。

時が経ち、次の年もさくらんぼはちゃんと赤い実をいっぱいつけてくれました。それを見ていたかのように、どこからともなく訪れる鳥の大群。すでに電線に整列して、時を待っているようです。
恥ずかしい話ですが、今になって考えると、あの頃の私は常軌を逸していました。「どうやってこの鳥たちを追い払うか」、そのことで頭がいっぱいになりました。
庭でちょっとでも鳥の鳴き声が聞こえると、何か用事をしていても飛んでいって、手を叩いたり、大声を出したりして追い払います。
「一体何をしているんだか」とも思うのですが、どうしようもなく体が動いてしまうのです。 
 隣でのんびりしている夫が、「人間同士だけじゃなく、鳥さんとも譲り合って陽気ぐらしできたらいいのになぁ」なんて、つぶやいているのが聞こえてきました。

この時になって「そうか、これが〝執着〟というものなのか」と気がつきました。
執着とは、「物事や人など、一つのことに囚われてしまい、そこから離れることができない状態」を言います。

天理教では
「物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自(おのずか)ら陽気ぐらしへの道が開ける」
(教祖伝P.23より)
と教えていただきます。心の中にたくさんの執着を抱えていては、明るい心にはなれないですね。

今まで私は自分のことを、物事に執着するタイプではないと思っていました。しかし、さくらんぼ騒動のおかげで、私には立派な執着心があると気がついたのです。ありがたいことに、さくらんぼの季節はほんの短い間です。季節が終われば私の執着心も消え去りますが、これがずっと続いたら、きっと病気になるだろうなあと思いました。

最近、依存症という言葉をよく耳にします。私の知り合いに、買い物依存症の方がおられました。
高価な着物やアクセサリー、ダイエット下着やサプリメント、などなど。欲しいなあと思ったら、もう我慢ができないのです。ローンを組んででも手に入れたくなります。
しかし、このローンの返済計画が、自分のパートの給料をすべてつぎ込むという無理なもので、破綻するのは時間の問題でした。ちょっと体をこわして会社を休んだりすると、もう返せません。ローン会社からは、毎日催促の電話や手紙が届きます。
それで怖くなり、とうとう自分の部屋から一歩も出られなくなってしまいました。

彼女の問題も、やっぱり「執着の心」ですね。ご縁があって手だすけをさせてもらうことになったのですが、「借金の額がちょっとでも少なくなるように、まだ身に着けていない宝石や着物は引き取ってもらいましょう」と説得しても、なかなか手放す決心がつきません。
時間をかけて、ようやく納得してもらい、法律事務所にも相談して先の見通しがたってくると、本人の顔つきが変わりました。明るくなって働く気力も湧いてきたようです。一朝一夕に解決とはいきませんが、彼女自身の心の向きが変わるよう、これからもサポートしていけたらと思っています。

考えてみると「執着」とは、「我さえ良ければ。私がいちばん。自分中心」といった心から生まれてくるのではないかと思います。身についてしまった心の癖を変えるのは容易なことではありませんが、神様が教えてくださるように、神様の教えをほうきとして、せっせと心の中を掃除していきたいと思います。

真っ青な空を飛び交う鳥たちのさえずりが聞こえてきます。そろそろさくらんぼの季節が始まります。

 


 
神様からの宿題
 〝ちょうどいい〟という幸せ

以前テレビで、ある有名なアナウンサーがインタビューを受けているのを見た。その人がまだ駆け出しのころ、プロ野球の実況中継をやりたくて研修を受けていたときの話になり、こんな失敗談を披露していた。

試合の実況の練習中に、バッターが〝カーン〟といい音を立ててボールを高々と打ち上げた。思わず「打ちました! 大きい当たり」と叫んだのだが、ボールが落ちてきたのはピッチャーのグローブの中だった。
「すみません」と謝る彼に、横についていた先輩アナウンサーはこう言ったという。
「ボールが高く上がったら、ボールばかり見ていてはだめだよ。下を見るんだ。選手の動きを見ていたら、ボールの落ちるところが分かる。ボールはグローブを構えた人のところに落ちてくるんだから」。

家族問題の相談の現場でも、これによく似たことがある。誰かが問題を起こしたとき、悪いのは本人だけで、当人さえ変わればまるく治まると考える。
一見、正しいように思うが、これはちょうど、打ち上がったボールだけを見ているようなもの。大切なのは「下の動きを見る」こと、つまり「問題が起こったら、周囲の人たちの動きを見ろ」ということだ。  
誰かが家族の外に〝打ち上がって〟しまったら、その人が再び家族の中に収まるための場所をつくらねばならない。下りる場所がなければ、ボールはずっと打ち上がったままである。

しかし、この〝場所づくり〟が結構むずかしい。なぜなら、問題を起こした人以外の家族はみな〝いい人〟である場合が多いからだ。
「私たちのどこが悪いと言うんです!」
「なぜ私たちが変わらなきゃいけないんですか。本人さえ、ちゃんとしてくれればいいんです」。
いい人で固まっている家族に、問題児の帰る場所はできにくい。
「せめてあの子が前向きな姿を見せてくれたら、私たちだって考えますよ」。
相手が変われば私も変わる―そんなやりとりをいくらしても、らちはあかない。

それどころか〝せめてもう少し〟と相手に求める欲の心は、お互いの心を深く傷つける。相手に対する不足の心は新たな不足を生み、それがまた相手を責める心に変わっていくのだ。実際に問題が起こった家族では、お互いに根深い被害者意識を持ち合っていることが多い。  
しかし、高い球は勝手に上がったのではない。その家族が、誰か悪者をつくらないと安定できないという、片寄ったバランスにあるときに問題児が打ち上げられる、ということも忘れてはならない。さもなければ、その人が、家族の中での居場所を完全になくしてしまうことにもなりかねない。

家族とは、神様がそれぞれの組み合わせをじっくりとお考えになってつくられたものである。
「この子さえ問題を起こさなかったら」「この人さえいなかったら」という世界はあり得ない。その家に不必要で無意味な人間など、決していない。すべてが〝ちょうどよく〟できているのだ。  
親子、夫婦、兄弟姉妹、嫁姑……よく見ると、本当にバランスの取れた組み合わせになっている。
無口な人にはおしゃべりの人が、竹を割ったような性格の人には、割れた竹を一生懸命に閉じ合わせようとする性格の人が、〝ちょうどよく〟そばについているものだ。

問題児に対して、「この子がいてくれて、いまのわが家はちょうどいい」と認めることから始めるのは、むずかしいことかもしれない。しかし家族の問題は、〝もっと豊かで柔らかく、力強い家族に成長するように〟と、神様から出された〝宿題〟なのだ。
「本当に神様のなさることは」と、多少苦笑いをしながらでも、家族みんなで協力し合って、その宿題の答えを探していくことだ。小さなことからでも毎日、喜びと感謝の心を積み重ねていきながら……。

(終)

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