第1208回2022年12月10日・11日放送
ほこりばかりを思案している
普段、自分の心の弱さを嫌というほど味わう私たち。心が思い通りにならない何よりの証拠である。
ほこりばかりを思案している
良いことをしようと思ってもままならず、悪いことをするまいと思っても、ついついそちらへ流れてしまう。私たちはこうした経験をしばしば繰り返し、そのたびごとに自分の弱さというものを嫌というほど味わいます。
神様は、人間に心を自由に使うことをお許しくだされていますが、もし私たちの心が本当に自由であったら、こんなことは起こるはずがありません。心を自由に使えるといっても、すべてが思い通りになることとは大きな開きがあるのであって、つまり私たちは、本来自由であるべき心を持ちながら、その自由を失っているのです。その原因となるのが、神様の思いに添わない、「ほこり」の心遣いです。
ここで、心遣いを反省する手掛かりとして教えられる「八つのほこり」のうちの、「にくい」というほこりについて考えてみます。もし私たちの心が自由なら、ある特定の人に対してにくいと思うことがあっても、同時に「いやあ、そうは言ってもあの人なりのいい所があるからなあ」と、クールダウンできるはずです。
にもかかわらず、その人の顔を見たら「にくい」という感情しか湧いてこない、もはや自分の力ではどうにも抑えられないとなったら、それこそ自分の心の内がすべて「にくい」という感情に占領され、完全に自由を失っている状態です。まさに、「にくい」というほこりまみれの心です。
他にも、欲望に負けるとか、感情におぼれる、頭がカーッしてきたというような状態も、これに当たるでしょう。人間には、ほこりに固執する自由もまた許されているという、実に面倒な負の側面があるのです。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、
月日にハせかいぢううハみなハが子
かハいゝばいをもていれども(十七 68)
それしらすみな一れつハめへ/\に
ほこりばかりをしやんしている(十七 69)
とあります。
月日と呼ばれる神様にとって、世界中の人間は皆可愛い我が子であるが、その親心を知らずに、人間は皆銘々がほこりの心ばかりを使っている。
「ほこりばかりを思案している」とは、実に驚くべきお言葉であり、私たちがいかに神様の思いから遠い所に生きているかがよく分かります。
ほこりばかりを思案し、それに慣れてしまっている状態から抜け出すこと。自分の心から放たれる匂いに、一人ひとりが敏感にならなければ、陽気ぐらしに近づくことはできないのです。
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