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第1311回2024年12月6日配信

彼女に足らなかったもの

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1145回

母の手

母との別れが近づいた、ある日の深夜。か細い手を握っていると、さまざまな思い出が心に浮かんできた。

家族のハーモニー「母の手
 「人間いきいき通信」2020年2月号より

白熊 繁一

 

母の部屋の窓辺に、季節外れの一輪の白い朝顔が咲いた初秋の日、母の長い人生の幕が降りた。妻や娘夫婦に手を握られ、背中をさすられながら、眠るがごとく、静かで穏やかな最期だった。

その前日、訪問診療の医師から血圧低下の指摘があり、私は母のベッドの横に布団を敷いて寝ることにした。とはいうものの、消え入りそうな小さな息が気になり、母の手を握りながら、その温かさを確かめる長い夜となった。

か細い手を握っていると、さまざまな思い出が心に浮かんでくる。

まだ自宅に冷蔵庫がなかった幼少期、病弱な父が寝込むたびに、母に連れられて氷を買いに行った。話しかけることもできないくらいの急ぎ足で、前だけを向く母の顔。つないだ手からは、緊張が伝わってきた。

小学生のころ、算数の授業が嫌で嫌でたまらず、校庭の芝生で寝転んでいると、学校から家に連絡が入り、母が迎えに来た。さぞかし怒られると思いきや、「お母ちゃんも算数は大っ嫌いや」と大笑いし、手をつないで帰った。母の笑顔のおかげで、授業のエスケープは一度きりとなった。

中学生のとき、クラブ活動中に右腕を骨折した。母は私の左手に箸や鉛筆を持たせ、その手を上から握ってくれた。そして、「どんなに時間がかかってもいい。あなたのペースを大事にしなさい」と言った。

その後、母に手を握られた記憶は思い出せない。

十年前に母が認知症を患い、今度は私が母の手を取りながら歩き、車いすに乗せ、ベッドに寝かせる日が続いた。最近は、私が誰であるのかさえ分からなくなったが、介護する妻や娘夫婦と共に、私も毎朝、母の手と顔を温かいタオルで拭いた。手を拭くたびに、母に育ててもらったありがたさを感じる大切な時間となった。

母が亡くなり、葬儀までの数日、大勢の方々が弔問に来てくださった。ある女性は、冷たくなった母の手を両手で包み、「先生……」と涙を流した。もうはるか昔のことだが、母は当時、子供たちにオルガンを教えていた。そのときの教え子の一人だという。

「先生は絵も上手で、よく教えてもらいました。でも、私が先生から本当に教えてもらったのは〝優しい心〟かもしれません。どんなときも『〇〇ちゃん』と言って、よく手を握ってくれました」と、涙を拭った。

母の一生を振り返ると、若いころは戦争と戦後の混乱期、結婚してからも経済的に不自由な時代が続き、病弱な夫の看病に明け暮れた。きっと一人で泣いた日もあっただろう。でも、私たち子供の前では、小さな喜びに目を向けながら「ありがたい」と口にした。近所の子供たちを集め、特技を生かして心を育んだ。

告別式の日、私の幼い孫や里子がそれぞれに絵を描いて、棺に納めてくれた。孫の絵は、ひいおばあちゃんと手をつないだ姿だった。八十九年の人生の最後まで、常に人の手を握りしめていた母だった。

いよいよお別れのとき、もう一度、母の手にふれた。長きにわたり大勢の人々の心を育ててくれた、ありがたい手、働き者の手、偉大な手だと思った。しっかりと握りしめ、心に刻んだ。

「ありがとうございました。お母さん」

母を見送る日は、長い間居座った秋雨前線が去り、洗いたてのような澄みわたる秋空だった。青空も、白い朝顔も、参列の方々の涙も、何もかもが母の人生を如実に物語っていた。

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