第1138回2021年8月7日・8日放送
里子との深夜のひと時
深夜、台所から大学生の里子の声がする。アルバイト先での不満を妻にぶつけているようだ。
家族のハーモニー「里子との深夜のひと時」
「人間いきいき通信」2020年5月号より
白熊 繁一
ある日の深夜、事務仕事の合間に台所へ行くと、妻の「ふーん、そうなんだ。でも、よく頑張ってるね」という声が聞こえてきた。話し相手は大学生の正夫で、アルバイトから帰って遅い夕食を取っていた。私の姿を見た正夫は、憤懣やるかたない様子で、「お父さんも、ちょっと聞いてよ!」と、まだ治まらない憤りを私に向けてきた。
正夫は高校一年生から、大学進学を目指して大手スーパーの鮮魚売り場でアルバイトを始めた。大学に入ってからも学費捻出のため、夕方から深夜にかけてアルバイトをしている。もう5年も続いていて、定期的な人事で代わる店長や、魚をさばく人などよりも古株になり、店の信頼も厚い。
正夫の話は、来店するお客さんについてだった。
アルバイトの正夫を相手に商品を値切ろうとし、一定の時間がたった商品に貼る値引きシールを貼ってくれと、無理難題を言ってくるというのだ。そんなとき、自分の立場ではできないと、はっきり伝えているが、今日の客は執拗に食い下がってきたという。正夫は、やるせない思いを家に持ち帰ってきていた。
「そんな無茶を言う人がいるのか」と私が言うと、「いろんな人がいるんだよ」とつぶやいた。
そんな暗い空気を振り払うかのように、妻が「でも、正夫のファンもいるんだよね」と朗らかに言った。すると「今日も夕方に来て、声をかけてくれたよ」と、返答が明るくなった。
妻が言うファンとは老齢のご婦人で、いつも正夫に「ご苦労さま」と声をかけてくれるらしい。「正夫はモテモテだなあ」と私が言うと、ようやく笑顔が戻った。
正夫は今年1月に成人式を迎えた。私たち夫婦が里親になり、初めて里子として迎えたのが3歳の正夫だった。里親と里子の出会いに不思議な縁を感じ、「おかえり」と言って迎え、幼いころは毎日「ムギュー」と抱きしめた。
あの日から、はや17年を数える。正夫は見上げるほどの背丈になった。私たち夫婦は、正夫の受託後に、さらに障害のある子供たちを受け入れる里親になり、正夫はいつの間にかスタッフとしての役割も担ってくれるようになった。
そうした体験も心を育てたのか、正夫は将来、障害児支援の仕事に就きたいと医療系大学で勉強している。深夜までアルバイトに精を出し、大学生活も楽しみたいと、大好きなダンスのサークルに入って活躍している。正夫の心と体には、はち切れそうな夢や希望が詰まっているように思う。
「僕は幸せだよ。こうして話を聞いてもらうだけでも、すっきりするから」と、食事をしながら正夫は言った。
そして、
「それに、自分が無茶を言う側ではないからね……」と続けた。
「正夫は一番大切なことに、ちゃんと気づいているんだなあ」と感心した。
社会で生きていくうえでは、理不尽さを感じたり、やるせない涙に暮れたりする日もある。そんなとき、誰かがそばにいて話に耳を傾けてくれたなら、たとえ事態は解決しなくても気持ちは和む。
学生の正夫が日々経験する、私が知り得ないさまざまな話に、胸が痛む気持ちにもなるが、深夜のこの会話を、とてもいとおしく感じた。そして妻が、いつも正夫に寄り添いながら話を聞いている日常をも、ありがたく思った。
間もなく大学での勉強に加えて、病院の実習も始まるという。そこには大勢の人たちとの出会いや、さまざまな体験が待ち受けているだろう。今夜のようなひと時があれば、明日もきっと頑張れるに違いない。