第1132回2021年6月26日・27日放送
正二さんの生きた証し
若い頃からやんちゃだった、いとこの正二さん。教会長を務めながら、男手一つで三人の子を育て上げた。
家族のハーモニー「正二さんの生きた証し」
「人間いきいき通信」2019年5月号より
白熊 繁一
正二さんは、九歳年上の私のいとこ。子供のときからやんちゃで、若いころは奈良県の自宅から東京のわが家まで、何日もかけて自転車で来たことがある。玄関に立つ正二さんの顔は、汗と排気ガスと長旅による日焼けで真っ黒だった。
その後もオートバイや真っ赤な自動車で不意に訪れるなど、正二さんにはいつも〝驚き〟が一緒についてきた。何の連絡もなく突然やって来ては、玄関先で大声で叫ぶので、私たち兄弟は、「嵐が来た!」と言って顔を見合わせた。辺り構わず「繁一!」と呼び、無理難題を言うので、滞在中はいつもハラハラしていた。
正二さんはメカに強く、私が青年期になると、何台かのポンコツバイクの部品を合体させて一台のバイクを作った。私が初めて入手した軽自動車も彼の〝作品〟だった。趣味の域を超えて、板金や塗装までこなす腕はプロ級だ。電気製品などの修理もお手のもので、どんな状態でも見事に復活させた。
その手際の良さに見とれていると、「人間は神様が造ったものやから治せんけど、機械は人間が作ったものやから、人間が直せるんや」と豪語した。その迫力に「なるほど」と頷いてしまった。
正二さんは、結婚して三人の子供を授かった。そして、母親が務めていた教会の会長を継いだが、間もなく離婚。幼い子供を引き取り、子育て生活に入った。東京にいる信者さん宅を回るために、赤ちゃんを抱いて私の家に来たり、子供たちが大きくなると、何日分もの食事を作り置きして、電話で食べ方を指示したりしていた。
厳しい父親と優しい母親の役を一人でこなす正二さん。彼の親心によって、三人の子供は真っすぐ育った。いまはそれぞれ家庭を持ち、孫が九人もいる。
私たち夫婦が里親を始めると、力強い応援団となってくれた。わが家へ来るたびに、お菓子や自作のおもちゃを持参して、子供たちを楽しませた。里子たちには、かつての「嵐」ではなく、心優しい〝足長おじさん〟だった。
数年前に重い病気を患った正二さんは、古くなった教会の移転普請をして、会長を長男に譲った。新築なった教会を訪ねると、病み上がりだというのにパワーショベルを操り、敷地の整理に汗を流していた。心配で休むように言うと、「寝ているより、動いていたほうが楽なんや」と、運転席から例の大声で答えた。
昨年末、とうとう病に伏せってしまった。彼を見舞い、しばらく雑談を交わした。私が帰ろうとすると、「寂しいから、もっといてくれ」と、いままで聞いたことのない弱音を漏らした。
そして間もなく、彼の長男から訃報が入った。あのか細い声でのやりとりが、最後の会話になってしまった。賑やかなことが大好きだった正二さんにふさわしく、子や孫たちに囲まれて、眠るように逝ったと聞いた。
告別式で、長男が「父は、私たち子供に何もしてやれなかったと言いました。でも、今日まで育ててくれた父に、何もしてあげられなかったのは私たちのほうです。部活に行くときは、必ず弁当を作ってくれました。あの甘い卵焼きの味が忘れられません」と言って、言葉を詰まらせた。斎場に、すすり泣く声が静かに響いた。優しく穏やかな子供たち、元気な孫たちの存在は、正二さんの生きた証しだ。
葬儀を終えて深夜、東京へ帰る電車のなかで「僕のほうが寂しいよ」と心のなかでつぶやいた。すると、いつも通りのにこやかな顔で「すまん、すまん」と言う正二さんの顔が、まぶたに浮かんだ。