第1135回2021年7月17日・18日放送
病い
「病い」という誰もが避けられない事態。私たちはそこからどのような意味を読み取るべきなのだろうか。
病い
おそらくすべての人々は、人生の中で何らかの「病い」を経験します。誰もが避けて通りたいその病いに遭った時、私たちはそこにどのような意味を読み取るべきなのでしょうか。
西洋医学では、病気は身体(しんたい)の生理的異常であり、正常な機能が営めなくなることであると定義されています。近代以降、西洋医学が試みてきたのは、人体のメカニズムの解明でした。病気を数字や人体図で客観的に表現し、疾患の原因となる要素を根絶しようと取り組んできたのです。
一方、たとえ同じ病名であっても、人によって容体は異なります。「病むのは人間であって、細胞ではない」という言葉があるように、病理の全てをデータで語ることはできないのです。すでに、心理的ストレスが免疫機能などに影響することは広く知られています。病気を個々の患者の問題であると捉えれば、心と身体が不可分の関係にあることは、よく理解できると思うのです。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」の直筆による「おふでさき」に、
このよふにやまいとゆうてないほどに
みのうちさハりみなしやんせよ(二号 23)
こればかりやまいなぞとハをもうなよ
月日ぢうよふしらしたいゆへ(十一号 26)
とあります。
一般的な病気というものは、決して「病い」ではなく、私たちの心を誠真実へと入れ替えさせるための神様からのお知らせであると示されています。
「やまひのもとハこゝろから」(「みかぐらうた」十下り目 10)とも教えられるように、病いの根本原因は私たちの心遣いにあります。神様によって生かされていることを自覚し、心の「ほこり」を払うことで、ご守護をいただくことができるのです。
医学的に見れば、病いはやはり、私たちの人生を脅かす出来事であるかもしれませんが、神様はこのようなお言葉を示されています。
「身上悩むやない。心という理が悩む。身上悩ますは神でない。皆心で悩む」(「おさしづ」M34・1・27)
「難儀さそう、不自由さそう親は無い」(「おさしづ」M22・11・1)
病の原因は心遣いにあり、皆はそれが原因で悩む。しかし、難儀さそうと思っているのではない、どんな中も神にもたれて通れば案じることはないと、懇ろにお諭しくださいます。
病いという経験は、生きることの根源的な意味を捉え直す機会となります。それは取りも直さず、人間本来のあり方、陽気ぐらしという生き方へと舵を切る転換点に他ならないのです。