第1222回2023年3月18日・19日放送
欲が混じりてある
心に欲が混じった状態では、神様は私たちの願いをお受け取りくださらない。お供えに関する逸話から考えていく。
欲が混じりてある
天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、
みれバせかいのこゝろにハ
よくがまじりてあるほどに(九下り目 三ッ)
よくがあるならやめてくれ
かみのうけとりでけんから(九下り目 四ッ)
とあります。
人々の心に欲が混じった状態では、せっかく神様におたすけを願い出ても、神様としてはそれをお受け取りになることができないと、あらかじめご注意くださっています。
問題は、人々の心に欲が「混じりてある」ということでしょう。完全に欲だらけの心であれば、誰もがすぐに分かるわけですが、多少混じっている状態では、本人も周りもそれが欲であるとなかなか気づきにくい場合があるのです。
教祖がお歌と共に教えられた手振りでは、「まじりて」の手は、物をはさんでいるような心持ちで、両手の指を軽く曲げて合掌の型をすると教えられています。それはまるで、外からは何が入っているのか分からない様子を表しているようにも悟れます。
では、心に欲が「混じっている」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。こんな逸話が残されています。
ある信者さんから、お餅のお供がありました。そのお餅を教祖にお出ししたところ、教祖が箸を持ってそれを召し上がろうとなさると、箸が激しく跳び上がって、どうしても召し上がることが出来ません。あとから聞くと、実はこのお餅をお供えする時、その家では「二升にして置け」「いや、三升にしよう」という言い争いがあったのちに、「惜しいけど、上げよう」と言って持ってきたお餅だったのです。(教祖伝逸話篇180「惜しみの餅」)
教祖にとっては、みな世界の胸の内は鏡のごとくに映っているのですから、人々の心に欲が混じっているかどうかは一目瞭然です。
教祖は、こんなお言葉を残されています。
「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ」(教祖伝逸話篇176「心の澄んだ人」)
と。
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