第1164回2022年2月5日・6日放送
ひのきしん
天理を訪れたカトリックの神父さんが、ひのきしんをする若者の姿に感動したという。そこに見えたものとは。
ひのきしん
以前、イタリアから天理を訪れたカトリックの神父さんが、「ここには健全な若者が大勢いる」と興奮気味に話していました。ひのきしんをする若者たちの姿を見て、感動を覚えたというのです。
神父さんはおそらく、働くことができる喜びの表現をそこに発見したのでしょう。そして、「自分のため」という視点から離れた行動の美しさを、神父さんならではの宗教的感性で感じとったのではないでしょうか。
「ひのきしん」について、『天理教教典』には、次のように記されています。
「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自(おのずか)らその態度や行為(おこない)にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。
なんでもこれからひとすぢに
かみにもたれてゆきまする(三下り目 7)
やむほどつらいことハない
わしもこれからひのきしん(三下り目 8)
身上(みじょう)の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ」(第8章 道すがら)
ひのきしんとは、何よりも「させていただく」という気持ちでする行いです。神様の恵みによって生かされている喜びがおのずから発動する、まさに「せずにはいられない」働きです。
お言葉に、
よくをわすれてひのきしん
これがだいゝちこえとなる(十一下り目 4)
とあります。
ひのきしんは自分のための、利害得失の計算の上に立った行為ではなく、欲の心を離れた働きであると諭されます。人間同士に見られるギブ・アンド・テイクとは違う、ひたすら神様へ心を向けた、見返りを求めない行いが「ひのきしん」なのです。
また、
ひとことはなしハひのきしん
にほひばかりをかけておく(七下り目 1)
とも仰せられます。
言葉には、つなぐ言葉もあれば、切る言葉もあります。ひと言の言葉にも気をつけて、常に人を生かす言葉、喜びを与えるような言葉を使えば、そこにもまた、ひのきしんの姿を見ることができると諭されています。
そして、大切なのは、こうした生き方を自分一人の信条にとどめることなく、そのつながりの輪を限りなく広げてゆくことです。そのいちばん身近な例として、
ふうふそろうてひのきしん
これがだいゝちものだねや(十一下り目 2)
と、夫婦で心を揃える大切さを教えられています。
ひのきしんは、特定の行為を指すものではありません。神様への感謝の心からなる行いすべてを指します。日常行う地道なひのきしんこそ、成人への大きな歩みとなるのです。