(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1151回

おうちゃんの匂い

重度の障害を持つ五歳のおうちゃんが、我が家で生活することに。小さな孫たちが親身にお世話をしてくれた。

おうちゃんの匂い

岐阜県在住  吉福 多恵子

 

訳あって、おうちゃんとおうちゃんのお母さんが、一か月我が家で生活することになりました。

おうちゃんが来るちょっと前から、酸素ボンベなどたくさんの荷物が届きました。おうちゃんは、生まれた時から身体のあちこちに障害があって、五歳になった今も、自分で座ったり歩いたりすることができません。気管切開をしていて、ご飯も口から食べることができないので、お母さんが吸引器で痰をとったり、管を使って胃に直接食事を入れてあげるそうです。

お母さんは、そうやっておうちゃんが生まれてから、ひと時も離れずにおうちゃんのお世話をしています。お仕事に行っているお父さんも、それはそれは優しくて、おうちゃんをお風呂に入れてあげたり、夜、なかなかぐっすり眠れないおうちゃんを、お母さんと交代で抱っこしてあげるのだそうです。

いま、おうちゃんのように心身に重度の障害がある「医療的ケア児」と呼ばれる子どもたちは、日本に二万人いると言われていて、みんな一生懸命生きようと頑張っていることを、私は今回初めて知りました。

小さな命を守るため、お世話をしている家族も含めて、誰もが笑って暮らせるように、たくさんの人がたすけ合っていくことが必要だと思います。周りにいる人が関心を寄せ、様子を聞いたり、労ってあげたり、ちょっと笑顔を向けるだけでも、毎日介護で緊張している家族の人たちの心がほぐれるのではないかと思います。

さて、おうちゃんが来ることを心待ちにしていた我が家の孫三人きょうだいは、時間があればおうちゃんのお部屋に入り浸っています。何をしているのか覗いてみると、おうちゃんのお布団で一緒に寝転んでいたり、おうちゃんのお母さんとおしゃべりしたり、わざわざ本を持ってきて読んでいたり。

また、一日の大半を食堂の定位置で過ごすおうちゃんですが、三兄弟の末っ子たいようくんは、常におうちゃんの車椅子の隣をキープして、話しかけたり、おうちゃんの車椅子に載せてある器械を隈なく観察し、何か変化があればお母さんに教えてあげています。おうちゃんが寝ている時は、お母さんの代わりにずっと見守ってあげたり、おうちゃんの本当のお兄さんのようです。

おうちゃんがいることで、家族が食堂に集まることが多くなった気がします。誰もがおうちゃんのそばを通る時に、ちょんちょん、とどこかを触っていったり、みんながおしゃべりしている時でも、「ね、おうちゃん」と声を掛ければ、おうちゃんも、ちゃんと会話に仲間入りします。そんな何気ない時間がとても穏やかで、おうちゃんもその雰囲気を感じて楽しんでいるように見えました。

思えば、たくさんの人がお世話に関わることで、おうちゃんの生活は成り立っているのですが、決して一方通行ではなく、私たちもおうちゃんからたくさんのものをもらっている気がします。神様のご守護や、人の心の温かさをより深く感じることができたのも、おうちゃんのおかげです。

おうちゃんのお風呂はちょっと大変です。おうちゃんには、四六時中外すことのできない管がつながっているので、それが外れないように抱っこする係と、洗う係の二人で連携して入れてあげます。きれいに洗ってもらって湯舟につかると、待ってましたとばかりに手や足をバタバタさせて、とても気持ち良さそう。そんなおうちゃんを見ていると、「今日もよく頑張ったね」と、周りのみんなも笑顔になるのでした。

ここで、知らない人の疑問にお答えします。「おうちゃんには、感情ってあるの?」はい!もちろんです。おうちゃんも、「ああ、今日は暑いなあ。お母さん、もうちょっと涼しくしてよ」とか、「さっきからお父さんとお母さん、楽しそうに話をしてるなあ。僕をほったらかしにするなんてずるいよ」などと、色々感じているのですが、言葉に出すことはできません。

それでもおうちゃんは、少し動かすことのできる手や腕を使って、感情を表します。私も初めのうちは全く分からなかったのですが、おうちゃんのお母さんに教えてもらって、よーく見ていると、「いやだよ」という時には、首を左右に振ったり、手でしっしっと払いのける格好をしたりします。また、「うん、分かった」という時には、右手をにぎにぎしたり、うんうんと首を縦に振ったりするのです。

おうちゃんは、少しずつそういう表現の仕方を自分で身につけていったのですね。すごいなあと感心しました。そして、おうちゃんのほんの一瞬の笑顔でも、大騒ぎをして喜ぶお父さんとお母さん。他の誰かと比べるのではなく、おうちゃんの小さな成長に目を向けているご夫婦は、喜び探しの達人だなと思いました。

一か月は瞬く間でした。おうちゃんのお父さんが迎えに来てくれて、おうちゃんは帰っていきました。

何日か経って、孫のたいようくんはお母さんとお風呂に入るため、おうちゃん達がいた離れのドアを開けました。

すると、「お母さん、おうちゃんの匂いがするよ。おうちゃん帰ったはずなのに、まだいるのかな? ぼく、見てくるね」と言うが早いか、おうちゃんたちがいた一番奥の部屋へと走っていきました。

しばらくして、「やっぱりいなかった」と肩を落として戻ってきたたいようくんに、お母さんは聞いてみました。

「おうちゃんの匂いって、どんな匂いなの?」

「あのねえ、ちょっと可愛い匂いがするんだよ」

たいようくんは、おうちゃんのことをそんな風に感じていたんだね。小さい二人の絆が太く結ばれていることが、とても嬉しく思えた夏の夜でした。

 


 

共につながり合い、たすけ合う

 

天理教の救済において、究極の目標とされているのが「陽気ぐらし」です。『天理教教典』には、次のように記されています。

「陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆々心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。(「おさしづ」M30・12・11

人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。

勝手というものは、めん/\にとってはよいものなれど、皆の中にとっては治まる理にならん。(「おさしづ」M33・11・20

一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう」(天理教教典 第十章「陽気ぐらし」)

 

陽気ぐらしを考えるうえで見落としてはならないのは、「共に」という視点です。楽しみにしても喜びにしても、自分中心の、自分勝手なものであれば、いつしか他人とぶつかって、たちまちにして壊れてしまいます。人間の暮らしは、一人だけで成り立つものでは決してないのです。

他者とのつながりを切って自分を主張するばかりでは、秩序は乱れ、必然的に自分の存在も不安定になります。

教祖・中山みき様「おやさま」の、次のようなお言葉が伝えられています。

「世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで」(教祖伝逸話篇135「皆丸い心で」)

神様の思召を軸として、皆がつながっていく姿こそ、陽気ぐらしの縮図と言えるでしょう。
また、このようなお言葉もあります。

「陽気遊びと言えば、今日もあちらへ遊び行く、何を見に行く。陽気遊びとは、目に見えたる事とはころっと格段が違うで」(「おさしづ」M23・6・20

陽気に暮らすということは、あちこち観光に行って楽しむというようなことではない。そうした目に見える世界のこととは本質的に違うと教えられます。

たしかに、いくら人がうらやむような生活の条件が揃っていても、それが直ちに生きる喜びにはなりません。客観的な「モノ」の世界は、あくまで私たちの心次第で神様が見せてくださるお与えの世界であり、肝心なのは心のあり方です。幸福であるかどうか、喜べるか喜べないかの決め手は、心に求められることになります。

たとえ何か不都合なことが起こってきても、心一つで陽気ぐらしは可能です。身の回りに起きることは、すべて神様からのメッセージであると受け止め、周囲の人々と共に、そして神様と共に陽気ぐらしを味わいたいものです。

(終)

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