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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1150回

人生の引き算

人生の終盤にさしかかり、心の病を発症。これまでの「足し算」のような生き方は、もはやできないことを思い知った。

人生の引き算

 大阪府在住  芦田 京子

 

小学生の時から算数を習っている。足し算、引き算、掛け算、割り算。すべてはそれが基礎である。実際のところ、この四つの計算が普通にこなせれば、日常生活でそれほど不便は感じない。

子どもの頃は、そろばんができる子が羨ましかった。計算が早いどころか、暗算もできる。そろばんが身体の一部になっていて、瞬時に答えを導き出す。その後、計算機ができて、そろばんのできない私たちも、一瞬で答えを出せるようになった。計算が苦手な私は、どれほど計算機の出現に感謝したかわからない。

私は同じ計算でも、引き算よりは足し算のほうが好きだった。割り算よりは掛け算のほうが、なんだか楽しい。やっぱり基本的に、減っていくよりは増えていくほうが嬉しいのだ。

長い人生でも同じことだ。赤ちゃんは何も持たず、何もできない存在としてこの世に生まれる。一人でできるのは呼吸と排泄ぐらいだろうか。だからこそ、成人するまで手厚い保護を受けて、様々なことを学んでいく。いわば、できることをどんどん我が身に足し算していくのだ。

そしていつの日か、足し算の答えのピークを迎える。その数字の大きさは人によって違うだろうし、時期も異なるだろう。しかし、そのピークを迎えた時から、今度は引き算をしなければならないのではないか。

スポーツ選手の引退は、そのいい例だろう。現役としてはピークを過ぎた、これからは指導者としてやっていこう。あるいはそれも過ぎると、解説者になったりする。スポーツの世界は結果がはっきり出るので、ある意味潔いかもしれない。

それと比べて私たちは、しっかり自分を見つめていないと、ピークを見逃してしまうことがありそうだ。歳をとっても、いつまでも若くいたい、いくつになってもチャレンジするのは大切なことだ、などと、私も最近までそんな風に思っていた。

だが、そんな私に変化の時が来た。高齢者と呼ばれるちょっと前に、心の病になったのだ。晴天の霹靂だったが、それは私にとって大きなターニングポイントとなった。どんなことも頑張って乗り越えてきたこれまでの生き方が、もはやできない。ここで生き方を変えなければ、この先、自分はやっていけないと、その時私は思い知ったのだ。

体力も、気力も、知力も、これまで通りではない。もう、そういうことを頼りに生きていく年代は過ぎたのだ。これからは、自分にとって本当に大切だと思うことを選んで、世の中の価値観に惑わされずに一日一日を過ごしたい、そう思うようになった。

そうなると、必要なのは潔く引き算をすることだ。仕事でも交友関係でも、自然がいい。持ち物は、目に見えるものも、見えないものも含めて少しずつ減らしていくのがいい。自分の身体さえ、だんだんと思うようにならなくなっていくのだから、もっと身軽になりたい。

心の中もお掃除しよう。これまでの人生で、大なり小なり、人への恨みつらみがなかったとは言えない。でも、自分だって人に色んな思いをかけてきたのだ。人生はおあいこだ。忘れたほうがいいことは、さっさと捨てたほうがいいのだ。

考えてみれば、引き算をしていくことで、自分の人生における価値あるものが見えてくるのかもしれない。

本当に自分にとって大切なものは、最後の最後まで取っておくだろう。逆に、箱にしまって後生大事にとっておいた高価な食器のように、これまで大切にしてきたものが、実はなくてもちっとも困らないものだったりすることもある。人生の引き算は、計算の苦手な私にとっても、自分を見直す大切な学びとなった。

私の親しかったご婦人は、晩年になっても、いつもノートを手放さなかった。本を読んでは、何かノートに書き写していた。亡くなった後、そのノートを見せていただいたら、そこには自分の心の糧となるお話や、神様のお言葉が書き記してあった。

ご婦人は生前、「私ね、死ぬ前に、心の中にあるものをみんな流して綺麗にしてから、神様に迎えてもらいたいの」と、よく言っていた。心の中の様々な思いを引き算して、まっさらにするために、神様のお言葉やお話をノートに書き写し、繰り返し読んで自分に言い聞かせることで、人生の最後の仕事を全うしようとしていたのだろう。

一冊のノートは、心の中のお掃除をきれいさっぱりやり遂げた、ご婦人の努力の証だったのだ。

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