第1141回2021年8月28日・29日放送
見えてないことを説いておく
信仰とは、学問や常識を超えた真実を求める営みである。教祖の「学問」に関するお言葉をひもとく。
見えてないことを説いておく
信仰のある人生とは、たとえば、一たす一は二、というような常識の世界とは別の、目に見えない真実にたどり着こうとする営みと言えるでしょう。合理的には説明のつかない事柄を信じ、それを自らの心の働きで掘り下げていくことによって、何らかのご守護の姿が現れてくるのかもしれません。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、
いまゝでハがくもんなぞとゆうたとて
みゑてない事さらにしろまい (四 88)
このさきハみへてない事だん/\と
よろづの事をみなといてをく (四 89)
とあります。
「今までは、学問というものは物事を明らかにする大したものだと言われてきた。しかし、その学問によっても、誰も知らない未知の事柄や、まだ表れていない未来を知ることはできない。ゆえに、これからは世界の人々をたすけるために、神が真実の教えをもって、見えていないことを段々と説き諭していく」。
この教えが、当時の人々にとって、いかに学問を超えた未知の事柄であったのか。このような逸話が残されています。
明治七年、教祖は二人の信者に対して、「大和(おやまと)神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」と、お屋敷から南へ四キロほど離れた大和神社へ行き、その神社の神様の由来について尋ねてくるよう仰せられました。このとき神職達は、「この神社は由緒ある大社であり、祭神は記紀神話に記された通りである」と述べましたが、どのようなご守護を下さる神様か、という点については答えることができませんでした。
そこで二人の信者が、教祖直筆による「おふでさき」を示し、「当方の神様は、かくかくの御守護を為し下さる、元の神・実の神である」と、日頃教えられた通り述べたところ、その翌日、お屋敷近くの石上神宮の神職達が、そのような異説を唱えることならんと、取り締まりの目的をもってお屋敷へやって来ました。
教祖は神職達に親しくお会いになり、神様のご守護について詳しく教え諭されました。神職達が「それが真(まこと)なれば、学問は嘘か」と詰め寄ると、教祖はこう仰せられました。
「学問に無い、古い九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい」。(「教祖伝」 115~117頁)
学問によって知識を深く求めることは、神様からの賜物である知恵の働きを生かすことであり、極めて有益なことです。しかし、神様がこの世界と人間を創造されたお働きは、その学問や常識をはるかに超えた真実であることを忘れてはならないと思うのです。