(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1120回

こうまんのほこり

人は知らないうちに心を高くしてしまうことがある。「こうまん」のほこりについて、教祖の逸話から考える。

こうまんのほこり

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たち人間の間違った心遣い、神様の思召しに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。

教祖は、ほこりの心遣いを掃除する手がかりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つを教えられていますが、そのうちの「こうまん」のほこりについて、次のようにお聞かせいただいています。

「こうまんとは、思い上がってうぬぼれ、威張り、富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけにするような心。また、目上に媚び、弱い者をいじめ、あるいは、頭の良いのを鼻にかけて、人を侮り、知ったかぶりし、人の欠点ばかり探す、これはこうまんのほこりであります」。

この「こうまん」のほこりを考えるうえで、二つの逸話をご紹介します。

ある年の暮れ、一人の信者が立派な重箱の中に、出来栄えの良い小餅を入れて持ってきました。さっそく教祖にお目にかけると、教祖はいつになく、「ああ、そうかえ」と仰せられただけで、一向に関心を示されません。

それから二、三日して、また別の信者がやってきました。手には粗末な風呂敷包みを抱えています。中には、竹の皮に、ほんの少しばかりの餡餅が入っていました。再び教祖にお目にかけると、教祖は、「直ぐに、親神様にお供えしておくれ」と、今度は非常にご満足の様子でした。

これはあとになって分かったことですが、先の人は恵まれた家庭で、お正月のためについたお餅が余ったので届けたに過ぎず、後の人は貧しいながらも、やっとのことでお餅をつくことができた嬉しさから、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を」と、感謝の心いっぱいに運んだのです。教祖は、それぞれの人の心が、ちゃんとお分かりになっていたのでした。(教祖伝逸話篇7「真心の御供」)

さて、明治十九年の夏のこと。ハタチの青年、松村吉太郎(まつむら・きちたろう)さんは、大阪の村役場へつとめながら、教祖のいらっしゃるお屋敷へ熱心に帰らせていただいていました。

ところが、若くて学問の素養もある吉太郎さんには、お屋敷へ寄り集う人々の教養のなさや、粗野な振る舞いなどが奇異に映り、軽侮の念すら抱いていました。

ある日、吉太郎さんが教祖にお目通りすると、教祖は、

「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」と仰せになりました。

このお言葉を承った吉太郎さんは、心の底からこうまんのさんげをしました。そして生涯をかけ、信仰の道をまっすぐに歩んだのです。(教祖伝逸話篇190「この道は」)

この二つの逸話から、人は裕福になったり、学問を修めるにつれて、無意識のうちにも心を高くしてしまうことがある、ということが分かります。何事も神様のご守護があればこそという、感謝と慎みの心を常に確かめていくことが大切ではないでしょうか。

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