(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1116回

機嫌よく暮らす

どんな時でも腹を立てず、機嫌よく過ごすには。その思案の元が、教祖が歩まれた「ひながた」にある。

機嫌よく暮らす
 

誰でも機嫌のいい時ばかりではありませんが、気分次第で人に気を使わせることは、なるべくなら避けたいものです。よくある話では、プロ野球でひいきのチームが負けた翌日の朝は、機嫌が悪いというお父さん。「そっとしておこう」と家族が気を使い、朝の食卓の雰囲気も沈みがちです。これはまだのどかな話ですが、このような気分屋の性質は誰しも持っているもので、気をつけなければなりません。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、
「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る」(「おさしづ」M22・2・14)
と教えてくださいました。

神様から心を自由に遣うことを許されている私たちは、自由なだけに良い心も遣えば、悪い心も遣います。しかも人は人と関わりながら生きていくわけで、自分ではコントロールできない激しい感情が生まれる場合もあるでしょう。

いつも機嫌よく過ごすには、感情が安定していることが必要です。喜怒哀楽さまざまある中でも、喜びや楽しいといった感情はいつでも大歓迎ですが、怒りや哀しみは、陽気ぐらしからは遠ざかってしまうもので、誰からも歓迎されることはないでしょう。

教祖は、陽気ぐらしへの妨げとなる自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえて教えられていますが、そのうちの「はらだち」について、次のようにお聞かせいただいています。

「はらだちとは、腹が立つのは気ままからであります。心が澄まぬからであります。人が悪い事を言ったとて腹を立て、誰がどうしたとて腹を立て、自分の主張を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないから、腹が立つのであります。これからは腹を立てず、天の理を立てるようにするがよろしい。短気や癇癪は、自分の徳を落とすだけでなく、命を損なうことがあります」

では、どのような心持ちなら、腹を立てることなく、いつでも機嫌よく過ごすことができるか。その思案の元が、教祖の歩まれた道「ひながた」にあります。

教祖がこの教えを広める道中は、苦難の連続でした。人がたすけを求めて寄って来たといっては、警察の取り締まりを受けることも度々で、教祖も幾度となく監獄署に拘留されました。しかし、そのような事態に際しても、教祖は決して心を倒すことはありませんでした。

教祖の道すがらを記した『教祖伝』には、

「教祖は、親神の思召を理解出来ぬ人間心を、残念と誌して激しいもどかしさを述べられながらも、頑是ない子供の仕草として、些かも気に障えられる事なく、反対する者も拘引に来る者も、悉く可愛い我が子供である、と思召されて、いそいそと出掛けられた」(141~142頁)とあります。

いそいそとは、心が浮き立って、動作が軽やかなさまを言います。人間の目から見れば逆境であっても、教祖のお心はいつでも「いそいそ」なのです。

教祖は、どこへお出かけになるにも、「歩かれる様子は、いかにも軽やかで速かった」(「教祖殿」166頁)と伝えられています。

私たちも、気持ちが沈んでいる時は、動作を早くしてみたり、いつもより早く歩いてみたり、少しばかり「いそいそ」と動くことを意識してみてはどうでしょう。そんなちょっとしたことが、心の明るさを取り戻すきっかけになるかもしれません。

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