第1098回2020年10月31日・11月1日放送
てびき
神様は、篤い親心から、私たちの心得違いを身体の障りなどを通してお知らせくださる。
てびき
暗い闇夜の中、小さな子供が崖っぷちを歩いています。何とかたすけてあげたいのですが、声を出して叫んでしまうと、かえってうろたえさせて危険です。
ここは音を立てずに近づき、つと手を握って安全な所へ引っ張っていくのが、たすけるための一番確実な方法です。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」の直筆による「おふでさき」に、
にんけんのわが子をもうもをなぢ事
こわきあふなきみちをあんぢる (「おふでさき」七 9)
とあります。
人が我が身勝手な心使いで、危うい日常を繰り返している時、私たちの真実の親である神様は、まったく居ても立ってもいられないほど、やきもきしながらその様子をご覧になっておられるのです。
神様はそのような時、身体の障りなどを通して、私たちの心得違いをお知らせくださいます。
『天理教教典』には、
「いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ」(第六章「てびき」)
と記されています。
この心通りに見せられる病気やけがの具合から思案をして、自らの心の欠点、心のほこりを反省する。これが天理教の信仰者としてのあるべき姿です。
先人たちは、このように考えました。
たとえば、手が痛くなったとします。手は働くためのものです。大工さんはノミを持ち、農家であればくわを持って仕事をする。その手が痛くなるのは、働きが足りないからである。働かないで、せずともよい遊びや、してはならない悪事にこの大事な手を使っていないか。このように思案したのです。
また、足が痛い時はどうか。足は歩くためのものです。その足を痛めたということは、まずは歩きなさい、そして神様のもとへ足を運びなさいというお諭しではないだろうか。なるほど、運ばなければならない所へ運んでいないのだ。さらには行ってはならぬ所へ足を向けてはいないだろうかと、反省するのです。
では、風邪をひいた場合はどうか。風邪をひくのは身体が冷えてしまったためで、であれば温かい思いやりの気持ちを持って人と接しよう。また呼吸が弱っているのだから、同じく息一つのご守護からなる言葉について、人様が喜ぶような言葉を使わせてもらおうと、我が身の通り方を定めるのです。
こうして身体に現れてくるところを手掛かりに、自分自身を省みる時、危ない崖っぷちをさまよっていた心の歩みは、一歩一歩神様の方へと向きを変え、神様のあたたかなお手によって、安心安全な道へとお導きいただけるものと思います。