(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1088回

命知と天理 

住原則也著「命知と天理 青年実業家・松下幸之助は何を見たのか」の内容の一部を紹介します。

命知と天理 ―青年実業家・松下幸之助は何を見たのか―

「激動の20世紀」の日本を代表する経営者は誰かと問われれば、やはり松下幸之助と答える人は少なくないでしょう。20世紀初めの大正7年、若干23歳にして、一切の支援もなく、わずかな資金と身内だけで起業し、昭和20年の終戦時には2万7千人近い従業員を抱えるまでの大きな成功を収めます。敗戦により会社も自身も大きな打撃を被りながら、戦後さらに大きく発展し、「経営の神様」と呼ばれるほど、広く日本企業のお手本になったことはよく知られています。

その幸之助氏が36歳のとき、いまだ会社規模も千人程度であった昭和7年3月のある日、仕事上の知人で天理教の信者でもあった人物に連れられて、初めて天理を訪問しました。朝8時から夕暮れまで10時間近くにわたって、「親里」と呼ばれる天理教教会本部の各所を巡り、多数の信者の活気あふれる姿を見、同時に神殿、教祖殿、教祖墓地、学校、図書館、製材所など、当時の教団の主要施設を、知人の詳しい説明を聞きながら見て回ったのです。

これがきっかけとなり、幸之助氏はその後広く知られるようになった「産業人としての真の使命」を確立しました。そして、その内容を同年5月5日に全店員を集めて演説し、絶大なる共感を得たこの日をもって、松下電器の「第1回創業記念日」としたのです。この昭和7年は「使命を知った年」であるとして、「命知元年」と称されています。

幸之助氏自身は戦後、次のように語っています。

「その時、ちょうど教祖殿の普請の最中で、大勢ひのきしんをしておられました。それで、その教祖殿を建てるためにいろんな材木が要りますね。その材木が各方面から献木がある。その献木を処理するための製材所もありましたが、それも見せていただきました。その時に、私はそういう一連の姿を見て非常に感銘を深くしましてね、天理教の盛んな繁栄と言いますか、建設の事業の上に、非常に力強いものを感じたんですよ。それで私は、そこから一つの使命観というものを感じまして、それがその後の松下電器の経営に非常にプラスし、発展に非常に大きな作用をしていると私は思います。

まあそれ迄は、金儲けするためとか、出世するためとか、また生活のためという点、いわゆる世間一般の通念に基づいて努力してきたわけです。ところが、天理教のそういう姿を見て、今迄のように、単にそういう商売人なら商売人、事業なら事業という通念に基づいてそれをするのではいかんと、これはもっと強い強い使命観というものがわれわれの仕事にもあるべきであって、その使命観に立脚して仕事をすべきであるという、そういう強い信念ができたわけです」

実業と宗教という、現代社会では別次元のもの、高い塀で分け隔てておくべきもの、といった常識を超えて、冷静な目で何かヒントをつかもうとした青年実業家・松下幸之助氏の柔軟な思考こそ、いまあらためて注目すべきことではないでしょうか。

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