第1088回2020年8月22日・23日放送
悪ガキたちのララバイ
子供たちがお世話になった中学の生活指導のK先生。女性ながら、その熱血ぶりは地元でも有名だった。
悪ガキたちのララバイ
大阪府在住 芦田 京子
私には三人の子供がいる。今ではそれぞれに成長して家庭を持ち、親となった。思い出すのは長男が中学一年生、長女が小学四年生、次男が小学一年生の頃のことである。当時はまだ週休二日制ではなかったので、土曜日は半日授業だった。
その日はなぜか中学生の長男がいちばん先に帰ってきて、次に長女が帰ってきた。いちばん早く帰って来るはずの次男がなかなか帰ってこない。
すると長男がやけに心配して、「おかしいなあ、何かあったのかな」と落ち着かない。私が「大丈夫よ、そのうち帰ってくるから」と言うと、「もしかしたらカツアゲにでもあってるんじゃないかな」と、マジメな顔をして言うのだ。
カツアゲとは、相手を脅かして金品を奪うことを言う。私は吹き出した。「小学一年生がカツアゲにあうなんて聞いたことないわ」。すると長男は、「だって俺、さっきカツアゲされたもん」と言うのだ。
私はびっくり仰天、それまでの笑い顔が一瞬にしてひきつった。長男は友達とワイワイ帰ってくる途中で高校生のグループに取り囲まれて、制服のボタンをひきちぎられ、持っていた150円をとられたという。今となれば、最近の青少年の様々な事件と比べて、どこかのどかな気がしないでもないが、当時はそんな余裕はなかった。
そうこうしているうちに、「ただいまー!」と元気な声がした。次男が帰ってきたのだ。「あー、よかった!」と長男の顔がほころんだ。
「学校に連絡した方がいいよね」と相談していると、電話が鳴った。中学の生活指導のK先生だ。女性の先生だが、どんな時もひるまず、あきらめない熱血先生で、地元では有名だった。ショートヘアにパンツスーツでビシッと決めて、さっそうと歩く姿は、親にはとても頼もしく、思わず「カッコイイ!先生、がんばって!」と声を掛けたいぐらいだった。
その先生が、「いま、カツアゲをした高校生を補導しました。息子さんがとられたボタンと150円をお返しします」と言うのだ。驚いた。たった今の話なのに、どこからどうやって伝わったのか。なぜそんなに早く高校生たちを捕まえられたのか。あまりの早わざに、生活指導の責任者とてしてのK先生の底力を見たような気がした。
K先生は地元の中学で私の一つ上の先輩で、ソフトボール部で活躍していた。その経験から、息子の中学では女子にソフトボールを教えながら、男子ばかりの野球部の顧問もしていた。
やがて長女も中学生になり、ソフトボール部でピッチャーをしていたので、先生には本当によく指導していただいた。だが、あろうことか、長女の学年は、ほんのひと握りの生徒の問題行動に端を発して、やがて徐々に学級崩壊の様相を見せ始めた。
子供たちが荒れ始めると、その勢いはあっという間に広がっていった。そのうち保護者が交代で授業の見回りをするようになり、ついには警察が介入。問題のある生徒は登校できないことになった。
学校は静かな日常を取り戻したが、授業に出られなくなった生徒がカバンを持って、いつまでも下駄箱の近くでしょんぼり立っていた姿が目に焼きついている。「そんなに学校が好きなら、もうちょっとルールを守ればよかったね」と言ってあげたかった。
しかし、その間のK先生の日々の努力は並大抵なものではなかった。身体を壊すほど一生懸命、生徒に向き合っていたのだった。
やがて、長女の学年の卒業の日が来た。苦労の多かった学年でもあったので、私は卒業文集を開いて、一つ一つ丹念に読んだ。その中に、K先生が顧問をつとめる野球部の男子生徒が書いたものがあった。
「先生、僕たちは毎日毎日いたずらをし、悪いことをしました。先生はそのたびに僕たちをしかりました。でも僕たちは、先生の言うことを全然聞かないで、やっぱり毎日悪いことばかりしていました。でも先生は僕たちのことをあきらめないで、ずっとしかり続けてくれました。先生、本当にありがとう。先生のことはいつまでも忘れません」。
読んでいて、私は思わず涙があふれてきた。
K先生の生徒を思う心は、生徒たちの激しい反発の裏側でちゃんと伝わっていたのだ。生徒と全力で向き合い、懸命に努力してきたのに、何一ついい結果が見えなかったら、誰でもやがて疲れ果て、やる気を失うだろう。しかし、表面的には事態が好転しない中で、生徒の心にはK先生の真心が届いていたのだった。誠真実は伝わるのだ。
この作文を書いた子は、この先の人生で何かにつまずいた時、K先生のことを懐かしく思い出すのではないか。そして、自分のことをあきらめないでいてくれたK先生という存在が、彼を再び立ち上がらせてくれるきっかけになるのではないかと、そう思うのだ。
目には見えなくても、誠真実は人の心の底に流れるきれいな水脈にゆっくりとしみ込んでいく。それがいつかは、私たちの心と身体を潤す澄んだ水となって湧き上がってくるのだ。
命知と天理 ―青年実業家・松下幸之助は何を見たのか―
「激動の20世紀」の日本を代表する経営者は誰かと問われれば、やはり松下幸之助と答える人は少なくないでしょう。20世紀初めの大正7年、若干23歳にして、一切の支援もなく、わずかな資金と身内だけで起業し、昭和20年の終戦時には2万7千人近い従業員を抱えるまでの大きな成功を収めます。敗戦により会社も自身も大きな打撃を被りながら、戦後さらに大きく発展し、「経営の神様」と呼ばれるほど、広く日本企業のお手本になったことはよく知られています。
その幸之助氏が36歳のとき、いまだ会社規模も千人程度であった昭和7年3月のある日、仕事上の知人で天理教の信者でもあった人物に連れられて、初めて天理を訪問しました。朝8時から夕暮れまで10時間近くにわたって、「親里」と呼ばれる天理教教会本部の各所を巡り、多数の信者の活気あふれる姿を見、同時に神殿、教祖殿、教祖墓地、学校、図書館、製材所など、当時の教団の主要施設を、知人の詳しい説明を聞きながら見て回ったのです。
これがきっかけとなり、幸之助氏はその後広く知られるようになった「産業人としての真の使命」を確立しました。そして、その内容を同年5月5日に全店員を集めて演説し、絶大なる共感を得たこの日をもって、松下電器の「第1回創業記念日」としたのです。この昭和7年は「使命を知った年」であるとして、「命知元年」と称されています。
幸之助氏自身は戦後、次のように語っています。
「その時、ちょうど教祖殿の普請の最中で、大勢ひのきしんをしておられました。それで、その教祖殿を建てるためにいろんな材木が要りますね。その材木が各方面から献木がある。その献木を処理するための製材所もありましたが、それも見せていただきました。その時に、私はそういう一連の姿を見て非常に感銘を深くしましてね、天理教の盛んな繁栄と言いますか、建設の事業の上に、非常に力強いものを感じたんですよ。それで私は、そこから一つの使命観というものを感じまして、それがその後の松下電器の経営に非常にプラスし、発展に非常に大きな作用をしていると私は思います。
まあそれ迄は、金儲けするためとか、出世するためとか、また生活のためという点、いわゆる世間一般の通念に基づいて努力してきたわけです。ところが、天理教のそういう姿を見て、今迄のように、単にそういう商売人なら商売人、事業なら事業という通念に基づいてそれをするのではいかんと、これはもっと強い強い使命観というものがわれわれの仕事にもあるべきであって、その使命観に立脚して仕事をすべきであるという、そういう強い信念ができたわけです」
実業と宗教という、現代社会では別次元のもの、高い塀で分け隔てておくべきもの、といった常識を超えて、冷静な目で何かヒントをつかもうとした青年実業家・松下幸之助氏の柔軟な思考こそ、いまあらためて注目すべきことではないでしょうか。
(終)