天理教の時間

「天理教の時間」家族円満 気づいていますか?身近にある幸せ

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第1280回

そこにある幸せ

家族が毎日、食卓を囲んで談笑できる。この有り難い姿を「当たり前」と思ってしまう自分がいる。

そこにある幸せ

                  大阪府在住  山本 達則

 

 

 アラブの寓話に、このようなものがあります。

ある人が、自宅の前で這いつくばって何かを探していました。そこを通りかかった友人が「何をしてるんだい?」と尋ねると、その人は「家の鍵を失くしたから探しているんだ」と答えました。そこで「それは大変だ」ということで、友人も一緒になって同じように這いつくばって鍵を探し始めました。

ところが、二人で一生懸命に探してもなかなか見つかりません。友人が「その鍵はどの辺りで失くしたんだ?」と聞くと、その人は「家の中だ」と答えました。「それなら、なぜ家の中を探さないんだ?」と友人が再度尋ねると、「家の中で探すよりも、ここの方が明るくて探しやすいから」と。

 

家の中で失くしたと分かっている鍵を、家の中は暗くて探しにくいから、明るい家の外で探しているという、何ともバカバカしい話です。でも、私はこの寓話と出会って、日常生活の中で見失いがちな大切なことを教えられたように感じました。

私たちは日常、「当たり前」の連続の中で生活しています。例えば朝、目が覚めること。仕事に行くこと。家族で食事ができること。家族がそれぞれの立場で、無事に一日を過ごしてくれること。そして、当たり前のようにそれぞれがうちに帰ってくること…。数え上げればきりがないぐらいに、当たり前の中で日々を過ごしています。

 

でも、それらのことは、本当に「当たり前」なのでしょうか。朝を迎え、家族それぞれが一日を過ごす中に、本当はありとあらゆる奇跡が起きているのでは?と感じることがあります。

学校で、どんな一日が子供たちを待っているのか?辛い思いをしたり、悲しい思いをしたり、不慮の事故に巻き込まれてしまうことも、絶対にないとは言い切れません。仕事で思い通りに事が運び、納得のいく一日を送れるかも、誰も保証はできません。穏やかだった近所のお付き合いが、何かのきっかけで崩れてしまい、そこで生活するのが辛くなることだって、絶対にないとは言い切れないと思います。

それらの可能性が、数えきれないほどたくさんの奇跡によって回避され、今日も家族が食卓を囲んで談笑できる、家族円満の姿がある。それには本当に、感謝しかありません。

 

 

でも、私たちは時に、幸せというものを見つめる場所を見誤ってしまうことがあります。もっといい家に住みたい、もっと豊かな生活を送りたい、もっといい車に乗りたい、もっといい仕事に就きたい…。暗い家の中よりも、こちらの方が明るくて探しやすい世界のようです。

もちろん、誰にでもそんな希望や欲求があり、それは決してダメなことでも責められることでもありません。それらの感情があるからこそ、向上心が芽生え、生きる活力が湧いてくることもあると思います。ですが…順番があるのです。

 

天理教では、「まいたるたねハみなはへる」(蒔いたる種は皆生える)というお言葉があります。

喜びの種を蒔けば、さらなる喜びの芽生えを見せて頂ける。反対に不足、不平、不満の種を蒔けば、その後でさらに喜べないことが目の前に現れてきてしまう。そう教えられます。

 

私自身、日常で感謝に値することを当たり前としか感じられず、何か思いもよらないことに出会った時に、不満を感じてしまう。知らず知らずの間に、そんな感情が身についてしまっているところが確かにあります。しかし、見方を変えることができれば、そこには間違いなく感謝できることがたくさんあります。

「決して当たり前ではない、感謝に値すること」。それに目を向けるのは実は簡単なことではなく、反対に目の前にある「足らないこと」に目を向けることの方が簡単なのかも知れません。

幸せな日常を求める場所は、探しやすい明るい場所であるとは限りません。たとえ探しにくい暗い所であっても、まずは「今ある感謝できること」を探していきたいと思います。そうすることが、誰もが求めてやまない「幸せを実感すること」への最短距離ではないかと思います。


 

 

 

だけど有難い  病は気から?

 

 病気という言葉は、「気を病む」と書きます。「病は気から」と言いますが、確かにそういうところがあって、たとえば薬ではない物でも薬だと信じて飲めば、何パーセントかの人には効くそうです。

 アメリカ西海岸のある病院で、こんな調査が行われました。病気が回復するようにお祈りをしてもらっている患者さんと、そうでない患者さんの病状の変化を比較して統計を取ったのです。すると、お祈りをしてもらっている人たちのほうが、明らかに良くなる率が高いという結果が出たそうです。それでも考えようによれば、「病は気から」で、薬ではない物を薬と信じて効能があるのと同じと言えるかもしれません。

 

 しかし、同じ調査で、この病院のある西海岸から遠く離れた東海岸の人たちが祈り続けた場合も、同じ結果が出たそうです。しかも、祈られた患者さんたちは、自分が祈られていることを知らなかった。これは不思議です。

 理由は科学的には分からないので、もっと調査をしなくてはならないそうですが、おそらく、調べても答えは出ないでしょう。それは、人間をお創りくだされた親神様が、祈る人々の真実をお受け取りくだされたからだと思うのです。

 

 河原町大教会では、月次祭の祭典後、希望する参拝者におさづけの取り次ぎをしています。これは、この世と人間をお創りくだされた親神様に直接お願いするのですから、こんなに心強いことはありません。実際、有難いことに、毎月、不思議なご守護を頂戴した喜びの声を直接聞かせていただいたり、お礼状を頂いたりするようになりました。

 偽薬でも、その気で飲めば「病は気から」程度には効くのです。おさづけの取り次ぎは親神様から直接ご守護を頂くのですから、「本当にたすかるのだろうか」などと疑っていたのでは、せっかく「たすけてやろう」と思っておられる親神様が「たすけられない」ということにもなりかねません。本気で信じて、もたれて、ご守護を願っていただきたいのです。

 

『稿本天理教教祖伝逸話篇』に、「子供が親のために」というお話があります。お道の草創期の先人の一人、桝井伊三郎(ますい・いさぶろう)先生がまだ若いころのこと、病気で危篤状態の母親をたすけていただきたくて、教祖のところへお願いに行かれました。

 しかし、教祖は「せっかくやけれども、身上救からんで」と仰せになりました。

 教祖が「救からん」とおっしゃるのだから仕方ない。そう思って、伊三郎さんは家に帰りました。しかし、苦しむ母の姿を見ると、それでもたすけていただきたいという気持ちでいっぱいになって、再び教祖のところへ行き、「ならん中を救けて頂きとうございます」とお願いしました。けれども、教祖は重ねて「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん」と仰せになりました。

 教祖が二度にわたって「救からん」とおっしゃるのだからと、そのときは得心して家に帰ったけれども、伊三郎さんは母の苦しむ姿にどうしてもジッとしていられませんでした。三たび、教祖のところへ行って、「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます」と、お願いしたのです。すると、教祖は「子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と仰せくださり、お母さんは鮮やかにご守護いただいて、八十八歳まで長生きされたということです。

 

 この姿勢が大事なのです。

 私たちは、どうしても合理的・論理的にものを考えようとします。科学を信仰しているようなところがあります。お医者さんに「だめだ」と言われたら、がっかりして、神様から宣告を受けたような気になって諦めてしまう。しかし、お医者さんは神様ではありません。

 最近、病院でも「病気と明るく闘おう」とか「病気と共に生きよう」などと書いたポスターを貼っているところがあります。それはなぜか。暗い気持ちで後ろ向きに生活するより、明るく素直な人のほうがたすかりやすいということが統計的に分かってきたからです。では、どうしたら明るく生きられるのか、どうしたら前向きに生きられるのか、その方法は病院では教えてくれません。

 私たちは、本当の人間の生き方、陽気ぐらしの生き方を知っています。そして、親神様を信じ、心を入れ替えることで、ご守護が頂けることを知っています。こんな有難いことはないのです。(終)

次回の
更新予定

第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

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山本 達則

文:山本 達則

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