(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1275回

年末に続いた子供の風邪

昨年末、四人の息子たちが立て続けに発熱。そこにどのような神様の思いがあるのかと思案した。

年末に続いた子供の風邪

和歌山県在住  岡 定紀

 

我が家では昨年末、子供が次々にインフルエンザや風邪にかかりました。12月に入ってからまず次男が、「体調が悪い」と横になり、熱が上がってきたので病院に連れて行ったところ、インフルエンザの陽性反応が出ました。

薬をもらって五日間、部屋を隔離して休養することになりました。高熱が出た時には本当にしんどそうで、代われるものなら代わりたいと思うほどでしたが、おかげさまで無事に回復し、学校に行けるようになりました。

すると今度は長男が、体調が悪いと言い出し、熱も上がってきたので病院に連れていくと、案の定インフルエンザでした。次男の回復から十日経っていたので、次男からうつったものではなく、学校で感染したのだと思いますが、同じく五日間、隔離して休養し、十分回復してから学校に行きました。

その数日後、今度は四男が発熱しました。これはインフルエンザだろうと思い、病院に連れて行ったのですが陰性とのこと。まだ陽性反応が出ない初期段階だったのかもしれないと、時間を置いて再び病院に行ったのですが、やはり陰性で風邪だということでした。

まもなく二学期の終業式になり、冬休みに突入すると、今度は三男に熱が出てきました。ちょうど、こども食堂でクリスマス会を予定していた前夜のことで、インフルエンザであれば親も濃厚接触者になるわけですから、他の子供にうつす可能性もあるので、中止せざるを得ませんでした。

結果的に陽性ではなかったのですが、12月は師走という通り、ただでさえあちこち回ったり、大掃除をしたり、餅つきをしたりと行事が続きます。こんな多忙な一カ月の間に、子供が順に熱を出していったことに、どのような神様の思いがあるのかと思案せずにはいられませんでした。

ところで、私どもの上級教会である大教会は神殿が広く、大掃除の時には工事現場で見かけるような足場を四段組み、長いはたきで天井のすす払いをしたりと、大掛かりな作業になります。

天井にすすなんか付いているのか、やるだけ無駄ではないかと思われるかもしれませんが、終わった後で大教会長さんが、「神殿の大掃除をして、心も掃除してもらえた気がします」と言われたのを聞いて、ハッとしました。

天理教では、心の掃除をすることの大切さを教えられています。自分では気づきにくい我が身勝手な心づかい、これを「ほこり」と呼んでいますが、天井のすす払いのように、目に見えにくい心の「ほこり」を、神様の教えを箒として払うことが肝心なのです。

まずは私自身、風邪などひかずに大掃除をさせてもらえたことに感謝をしないといけない、と同時に、心の掃除に努めなければいけない。このことに改めて思いを強くしました。

ところで、日本の習慣である年末の大掃除も、元は正月に家庭に幸せをもたらす年神様を迎えるために、家の中を綺麗にしておくというのが由来です。そして門松は、その年神様が迷わないように、目印として家の玄関に置くことに由来します。

また餅つきも、正月に鏡餅を供えることで神様の魂が入り込み、それを頂いて新しい命を授かるという意味があります。これら一連の行事の根底には、健康に置いて頂くのも神様のお蔭である、という思いがあるわけです。幸い、体調を崩していた子供たちも、1230日には皆揃って元気になり、一緒に鏡餅を作り、玄関に門松の飾りつけをすることができました。

思い返せば、おととしの年末はまだコロナ禍の最中で、長男が感染してしまい、家族揃って大掃除や餅つき、門松作りといった恒例行事ができませんでした。それを思えば今回は有難かったと思います。

年末年始は冷え込みが厳しく、体調を崩しやすい時期です。だからこそ、日々元気に置いて頂いていることの有難さを、家族共々噛みしめるいい時期ではないでしょうか。

 


 

医者の手余り

 

天理教教典には、教祖・中山みき様「おやさま」の行われた人だすけについて、次のように記されています。

 

「やがて、をびや許しによって示された珍しいたすけが、道あけとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた。教祖は、これらの人々に、病の元は心からと教え、不思議なたすけを示されたことは数知れぬほどで、不治といわれた難病も、教祖の前には決して不治ではなかった。」

 

まだ医療体制の整っていない江戸末期、教祖の不思議なたすけによって教えは徐々に広まっていきましたが、「医療」と「おたすけ」に関する次のようなお言葉があります。

 

「医者の手余りを救けるが台と言う。(中略)医者の手余りと言えば、捨てもの同様である。それを救けるが教の台と言う」(M26・10・17)

 

ここで諭されているのは、天理教における「おたすけ」は、決して医療と対立するものではなく、医療を持ってしてもたすけることのできない人々に手を差し伸べるのが、この教えを信じる者の役目であり、この道の信仰の土台である、ということです。

親神様は、この世界と人間をお造りくだされてこの方、心を入れ替えるための真実の道を教えるべく、私たち人間に知恵を仕込み、学問を与え、また病気を治すための医療の道をもお与えになったのです。

 

  にんけんにやまいとゆうてないけれど
  このよはじまりしりたものなし   (九 10)

  この事をしらしたいからたん/\と
  しゆりやこゑにいしやくすりを   (九 11)

 

この世界の元初まりの真実を知ったなら、病気と言われるものが、必ずしも病気ではなく、神の切なる親心だということが分かってくる。それを知らしたいがゆえに、色々と段階を踏んで、身体の修理や肥の役割として、医者や薬というものを与えてきた。このように仰せられています。

医療を受けることで、私たちは体内における親神様のご守護をより実感させて頂くことができます。その一方、医療はあくまで病気を治すことが目的であり、いかに生きるべきかを示すものではありません。

この信仰においては、病気の回復はあくまで一つの結果であり、その病気を通して親神様の深い思わくを悟り、心の向きを変えることに主眼が置かれています。「病の元は心から」とのお言葉通り、最終的な目標は、陽気ぐらしに近づくこと。心を立て直し、生き方そのものを変えていくことなのです。

(終)

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