第1225回2023年4月14日配信
食べ物を通して感じること その②
食べ物を通して教祖が教えてくださったことは多々ある。それを「食品ロス」の問題にどう生かしていくべきか。
食べ物を通して感じること その②
和歌山県在住 岡 定紀
新型コロナウイルスの感染が拡大して以降、常にマスクを付け、会話も極力控える風潮がすっかり広まりました。特に皆で一緒に食事をする「会食」ははばかられ、黙って食べる「黙食」という言葉が定着しました。
天理教の教会では、月に一度「月次祭」というお祭りが行われます。日頃、神様から頂戴するご守護にお礼申し上げ、そのご恩報じとして、神様の望まれる「陽気ぐらし世界」の実現へ向けて働かせてもらうことをお誓いしています。
月次祭が終わると、本来は皆で食事をする「直会」という場が設けられるのですが、これもコロナのために極力控えるようになり、お弁当を持ち帰ってもらうなど、変更を余儀なくされている状況です。
それと同様に、うちの教会で開いていた「こども食堂」も、会食を伴うため中止しています。その代わりに、お子さんをお持ちの生活が厳しい家庭に食料を提供する活動をしていますが、それを通して痛感したのが、世の中には、まだ食べられるのに廃棄される食料の何と多いことか、ということでした。
しかし、廃棄する食料を減らすことは、一人ひとりの努力によって可能であり、そのような小さな積み重ねが、自然破壊が進む環境問題の解決に近づき、人とのつながりが希薄になった社会に潤いをもたらすことを、前回お話ししました。
食べ物を通して、天理教の教祖である「おやさま」から教えて頂いていることは多々あります。
人間の親である親神様のご守護に感謝し、日々、人だすけの御用に励ませて頂いている私たちは、毎朝、親神様、教祖、そして先祖である御霊様にお酒、お米をはじめ、野菜、くだもの、菓子などを供え、そのお下がりを頂いて生活しています。
お供えする食材はお店で買ったり、畑で収穫するものもありますが、いずれにせよ、手に入れた最初の部分である「お初」を、感謝を込めて供えるわけです。
ここで教祖にまつわるお話の中から、「真心の御供」というエピソードを紹介したいと思います。
ある年の暮れに、一人の信者さんが立派な重箱にきれいな小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい」と言って持ってきました。側の者がさっそく教祖にお目にかけると、いつになく「ああ、そうかえ」と仰せられただけで、ご満足の様子はありませんでした。
それから数日して、別の信者さんが、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます」と言って、粗末な風呂敷包みを出しました。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていました。また側の者がお目にかけると、今度は「直ぐに、親神様にお供えしておくれ」と、非常にご満足の様子でした。
これは後で分かったことですが、先の人はかなり裕福な家の人で、正月についたお餅が余ったので、それを持ってきたに過ぎず、後の人は貧しい家の人でしたが、やっとのことで正月のお餅をつくことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を」と、そのつき立てのところを持って来たのです。教祖には、二人の人の心が、ちゃんとお分かりになっていたのでした。(教祖伝逸話篇7「真心の御供」)
というお話です。
私たちはこのお話から、食べ物が立派であるかどうかより、その心が大切であることを教えて頂いています。私はこの教えを、現代社会の大きな問題である食品ロスに、どのように生かしていくべきかを考えています。
現在、捨ててしまう予定の食材を、必要な家庭にお渡ししているのですが、それらの食材がどのような経緯で回ってきたのかは私たちには分かりません。しかし、せめて、教祖の「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」(教祖伝逸話篇112「一に愛想」)との大切な教えが伝わるよう、思いを込めてお渡ししたいと考えています。
また、活動を続けるうちに、やがては次の教祖のお言葉も味わってもらえたらと思います。
それは、
「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」(天理教教典48頁)
というお言葉です。
食べ物を充分に味わえること。その元である健康に恵まれていることに感謝すること。そこから来る喜びが、周囲の人々をも朗らかに明るくするということを思い描きながら、活動を続けています。
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